神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

アイギーナ(8):勝利

アテーナイは有名なマラトーンの戦いでペルシア軍に大勝します。ペルシアの脅威を除去したアテーナイは、親ペルシアのアイギーナの現政権を転覆させ、親アテーナイの政権を樹立しようとする陰謀を進めました。アテーナイ側が目を付けたのは、アイギーナで貴族政に反対する民衆派の指導者ニコドロモスでした。この頃アテーナイは民主政を施行してかなり年月が経っていました。そのこともあってアイギーナの民衆派は親アテーナイ反ペルシアでした。
以下のヘーロドトスの記述にはアテーナイ側の偏見が入っているような気がします。ヘーロドトスはアテーナイに長く住んでいたので、アテーナイ人のアイギーナへの敵意がヘーロドトスの記述に反映されるということもあったと思うのです。

さてここにクノイトスの子ニコドロモスというアイギナでは名の通った人物がいたが、この男は以前自分がアイギナ島から追放されたことから、アイギナ人を快く思っておらず、そこでこの時アテナイ人がアイギナを侵害しようとしているのを聞くと、祖国を裏切ってアイギナをアテナイ人の手に委ねる協定を結び、自分が蹶起する日を告げ、その日に彼らも救援に駆け参ずべきことを伝えたのである。その後ニコドロモスはアテナイ人と打ち合わせたとおりにいわゆるアイギナの旧市街を占拠したが、アテナイ人の来援は間に合わなかった。


ヘロドトス著「歴史」巻6、88 から

ニコドロモスはおそらく上の記述で描かれるような祖国への裏切り者という面では捕えきれないものがあったと私は想像します。さて、なぜアテーナイ側がニコドロモスの蹶起に間に合わなかったかといいますと、アイギーナに対抗できるだけの軍船を準備することが出来なかったからです。そのためニコドロモスの反乱は失敗しました。

その理由はアイギナの艦隊と交戦できる戦闘力を持った艦船がアテナイに不足していたからで、彼らがコリントスに艦船の貸与を乞うている間に、陰謀は挫折してしまったのである。(中略)アテナイ人はこれらの船を入手するとこれに自国の船も加え総数七十隻を装備してアイギナに向い、約定の日より一日遅れて到着した。
 ニコドロモスはアテナイ軍の来援が間に合わぬのを知ると、船に乗ってアイギナから逃走した。ニコドロモスには他のアイギナ人も同行したが、アテナイ人は彼らがスニオンに居住することを許した。そこで彼らはここを根拠地として、アイギナ島の住民を襲い掠奪を繰返したのであった。


ヘロドトス著「歴史」巻6、89・90 から


アイギーナは民衆派の反乱を鎮圧し、来攻したアテーナイ船団を迎え撃ちました。アテーナイ船団も七十隻でしたが対するアイギーナの船団も七十隻でした。そして一旦はアテーナイに敗れたのでしたが、その後、アルゴスからの義勇兵の助力を得て、再度アテーナイ船団に戦いを挑み、これに大勝したのでした。

さてアイギナはその戦隊をもって、戦列の整わないアテナイ軍に襲いかかってこれを破り、四隻の船を乗員ぐるみ捕獲した。


ヘロドトス著「歴史」巻6、93 から


この時から第二次ペルシア戦争までの期間、BC 490年から480年までの10年間がアイギーナの最盛期でした。アイギーナの最盛期については調べてもなかなか具体的な記事が見つからないのですが、英語版のWikipediaにはこの頃のアイギーナの彫刻家の名前が出ていました。スミリスはBC 6世紀のアイギーナ生まれの彫刻家で、この最盛期より前に活躍したようです。彼はサモス島のヘーラー神殿のヘーラー神像を作ったとのことです。オナタスとプトリコスはアイギーナの最盛期に活躍したアイギーナ生まれの彫刻家です。英語版のWikipediaのオナタスの項の記述によれば、オナタスはアフェア神殿のペディメント(=破風)の彫刻を作ったようです。そのWikipediaの記述では、オナタスが作った彫像の特徴を「それらは男っぽく、丈夫で、運動神経がよさそうで、人間の姿についての偉大な知識を示しているが、どこか堅苦しく自動人形に似ている。They are manly, vigorous, athletic, showing great knowledge of the human form, but somewhat stiff and automaton-like.」と述べています。
アテーナイの有名なパルテノーン神殿の彫像に比べてこれらの彫像が優美さに欠けるように感じられるとしたら、それはオナタスの技量によるよりも、パルテノーン神殿に比べてこのアフェア神殿が約50年先行するという事実が大きいのではないか、と私は思います。アフェア神殿が建設されたBC 500年頃はまだアルカイック・スマイルが一般的な時代でした。もっと自然な表現が可能になるためには技術の進歩が必要なのでした。


ところでこの海戦はアテーナイに深刻な危機感を与えました。この頃アテーナイの民衆派のリーダーとして頭角を現しつつあったテミストクレースは、アイギーナに勝つために軍船を大量に建造することをアテーナイの民会に提案しました。

テミストクレスが時宜にかなった説を唱えて、大勢を制したことがあった。それはラウレオンの鉱山からの収益である多額の金がアテナイの国庫を潤したので、市民一人当り十ドラクマずつ配当しようとした時のことである。この時テミストクレスアテナイ人を説いてこの分配を中止させ、この金で戦争に備えて二百隻の船を建造させることに成功した。テミストクレスの意味した戦争というのは、対アイギナ戦のことだったのである。実際この戦争があったればこそアテナイは否応なく海軍国となったのであり(後略)


ヘロドトス著「歴史」巻7、144 から

つまりアテーナイは、この敗戦がなければ海軍国として覇を唱えることもなかったのでした。アイギーナの最盛期は、その裏に没落の要因を成長させていたのでした。