神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

デーロス島(7):ペルシア戦争まで

ではイオーニア人到来以降のことを書いていきます。
キクラデス諸島のすぐ北にはエウボイア島という大きな島がありますが、BC 710~BC 650年頃に行われた、エウボイア島にある2つの町、カルキスエレトリアの間の戦争、いわゆるレーラントス戦争にデーロス島は巻き込まれなかったようです。この頃、デーロス島を含むキクラデス諸島は1つの盛期にあたっていました。メーロス島とシフノス島の黒曜石、シロス島の銀、サントリーニ島軽石パロス島の大理石、といった島々の特産品を交易することによって、キクラデス諸島は繁栄していました。

特にナクソス島の力が強かったようです。BC 600年より少し前、ナクソスは、デーロス島ライオンのテラスという物を作って、アポローン神に奉献しています。元々は9頭から12頭の大理石のライオンの像があったようですが、今は7頭しか残っていません。これらはデーロスの聖なる道に沿って並んでいました。


その後、アテーナイの僭主ペイシストラトスがデーロス島の「お清め」をしています。

彼は神託に従って、デロス島の浄祓を行なった。浄祓は次のように実施された。すなわち、神殿から見はるかせる限りの全域から、埋葬されている遺体を掘り出し、これを島の他の地域に移したのである。


ヘロドトス著「歴史」巻1、64 から

この出来事はトゥーキュディデースもその著書に書いています。

この趣旨の清めはこれより先に独裁者ペイシストラトスによっておこなわれたことがあったが、しかしその時は島全体についてではなく、神殿から見渡せる限りの地域が清めの対象であった。


トゥーキュディデース著「戦史」巻3、104 から


その後、エーゲ海の東側の小アジアギリシア諸都市がペルシアの支配下に入りますが、まだデーロス島までペルシアの力は及んではいませんでした。サモス島の僭主ポリュクラテースがその強力な海軍によってデーロス島のすぐ隣にあるレーナイア島を奪い、これをデーロス島と鎖で結びつけて、デーロスの神アポローンに献上したことがありましたが、これは単なるエピソードに終ります。

しかしBC 498年に事態は変わります。この年、小アジアミーレートスを中心とするギリシア諸都市がペルシアに対して反乱を起こすという事件(イオーニアの反乱)が起こると、アテーナイと、エウボイア島のエレトリアがこの反乱に協力しました。イオーニアの反乱はBC 494年にペルシアによって鎮圧されましたが、ペルシアはアテーナイとエレトリアが反乱に援軍を出したことを口実にして、エーゲ海を西へと侵攻し始めました(BC 492)。これが(第一次)ペルシア戦争の始まりです。


ペルシア軍の総大将ダティスは兵馬を満載した艦隊を率いて西へ進みました。まずはキリキア(小アジア南岸)で軍を集結させ、それから北上し、次にサモス島から西に向かい、イカリア島まで進みました。ここまではイオーニアの反乱後ペルシアに服属した領域です。ここから西は当時のペルシア領の外になります。ペルシア艦隊はイカリア島から少し南に下がってナクソス島を攻略しました。ここからデーロス島まではわずかな距離です。ペルシア軍が近づいたことを知ったデーロス島の住民は、北隣のテーノス島に避難します。
この時、ダティスが意外な行動をとったことをヘーロドトスは伝えています。

 ペルシア軍が右のような作戦を展開中、デロス島の住民もデロス島を引き払い、テノス島に避難した。艦隊がデロスに近付くと、ダティスは艦隊の先頭に出て、艦船がデロス島附近に碇泊することを許さず、デロス島の先にあるレナイア島に碇泊せしめた。ダティスはデロス人の所在を知ると伝令をやって次のように伝えさせた。
 「聖なる町の住民たちに告ぐ。何故にそなたらは故もなく私のことを悪しざまに思いなして、町を捨て退散したのであるか。かの二柱の神の生(あ)れましたこの国においては、国土にもその住民にも何らの危害も加えぬという程の分別は私自身にもあるし、また大王からそのように仰せ付かってもいる。さればそなたらもおのおの自宅に帰り、この島に居住するがよい。」
 ダティスはこのようにデロス人に伝えさせたのち、三百タラントンの香木を積み上げ、これを焚いた。


ヘロドトス著「歴史」巻6、97 から


ギリシア人ならぬペルシアの総大将が(正確にいえばダティスはペルシア人ではなく、ペルシアに服属していたメディア人の出身ですが、とにかくギリシア人ではありません)ギリシアの宗教を尊重して、デーロス島に近づかなかった、というのです。上の引用中「かの二柱の神の生(あ)れました」というのはデーロス島アポローンとアルテミスの兄妹が生まれた神話のことを指しています。しかし、これはギリシアの神話なのですから、ペルシアやメディアの人間が知っていると思えません。仮に伝聞で知っていたとしても、それを尊重するとも思えません。「また大王からそのように仰せ付かってもいる」という言葉から、デーロス島を迂回するというのはペルシア王ダーレイオスの意志でもあることが分かります。最後の「三百タラントンの香木を積み上げ、これを焚いた」というのはアポローンとアルテミスへの崇拝の意を表したものでしょう。ヘーロドトスの伝えるこの話が本当だとしたら、不思議な話です。とはいえ、もしデーロス島がペルシア軍に攻略され、人々が捕縛され奴隷にされていたら(ナクソスではこれが起こりました)、上の引用のような話は伝わらなかったと思うので、理由はともあれ、ペルシア軍がデーロス島を迂回して西に進んだのは確かなようです。