神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

デーロス島(5):イオーニア人の到来


伝説ではトロイア戦争が終わって80年目に、ヘーラクレースの後裔を称する人々に率いられたドーリス人が北からペロポネーソス半島に侵入して、そこに住んでいたアカイア人を追い出し、さらにアカイア人がイオーニア人を追い出し、イオーニア人は一旦アテーナイに避難したのち、エーゲ海の島々や小アジアに植民した、ということになっています。
古典期にはデーロス島に住んでいたのはイオーニア人でした。しかし、イオーニア人がデーロス島にやってきた時の伝承を、私は見つけることが出来ていません。



以前「ミーレートス(3):ミーレートス建設」に書きましたようにミーレートスならば、アテーナイ王コドロスの子ネーレウスが指導者になってミーレートス市を建設した、という伝承が残っています。また、同じ小アジア沿岸にあるイオーニア系の植民市エペソスには、エペソスの建設者はコドロスの子アンドロクロスである、という伝承が残っています。しかし、デーロス島にはそういう伝承が残っていないようです。


伝承として残っているのは、すでにデーロス島がイオーニア人の聖地になってからの状況です。それは何度もこのブログでは引用している「ホメーロス風讃歌」の中の「アポローンへの讃歌」に描かれています。

 しかしポイボス*1よ、あなたは何にもましてデーロスを心の底より愛してる。その地には、裳裾ひくイオニア人が、自分たちの子供や貞淑な妻を伴ない集まりつどう。彼らはあなた*2を記念して競技の場を設けては、拳闘に、舞踊に、歌にと、あなたを喜ばせる。
 イオニア人がつどう場にいあわせた者は、この人々を不死なる者、老いを知らない神々に違いない、と言うほどだ。それほどまでに彼らのすべてが美しい。男たちも、帯の美しい女たちも美しく、彼らの足速い船、豊かな品々、これらを目にするならば、心楽しまずにはいられない。
 しかし何にも勝る大きな感動、不滅の栄誉を担うものは、遠矢射る神に仕えるデーロスの乙女たち。彼女たちはまず始めにアポローンを讃え、次にはレートー*3と矢を降りそそぐアルテミス*4さらにはいにしえの男たち女たちにも記憶をはせ、讃歌を歌い、人間たちを楽しませる。乙女たちはさまざまな人間の声を、カスタネットの音にあわせ描きだすことに長けていて、まるでそれらの人々の一人ひとりが口をきいているようだ。それほどにまで美しい歌が綴られる。
 どうかアポローンが、アルテミスともども恵み深くありますよう。お前たち乙女一同もごきげんよう。そして私のことを後々まで覚えていてくれるように。


岩波文庫「四つのギリシア神話―「ホメーロス讃歌」より―」の「アポローンへの讃歌」より

この詩についてトゥーキュディデースが以下のような補足をしています。

デーロスでは遥か古い頃にも、イオーニア人や周辺の島嶼の住民たちが集う盛大な催しが行われていた。現在エペシア祭にイオーニア人が集うように、往事の人々は妻子ともどもに参詣にデーロスに集い、ここでは体育や音楽詩曲の競演がかれらの間でおこなわれ、各都市は詩曲上演の合唱隊をここに集めた。(中略)
そしてまたこの折に詩歌音曲の競演がおこなわれ、賞を得んとする人々が訪れた(後略)


トゥーキュディデース著「戦史」巻3、104 から


このような風景になる前の、イオーニア人がデーロス島に到達する時点について何か伝承があればいいな、と思うのですが、どうも見つかりません。小アジア沿岸にあるイオーニア系の植民市と、エーゲ海の真ん中の植民市とでは、建設のあり方が異なるのかもしれません。
デーロス島はキクラデス諸島に属するのですが、英語版Wikipediaの「キクラデス諸島の歴史」という項目を見ると、イオーニア人がキクラデス諸島にやってきたのはBC 10世紀のことのようです。

 イオーニア人はBC 10世紀頃に大陸から来て、約3世紀後にデーロス島に偉大な宗教的聖域を設立した。アポローンへのホメーロスの讃歌は(その最初の部分はBC 7世紀に遡る)イオーニア人の礼拝(それは運動競技、歌、舞踊を含む)を示している。考古学的発掘調査は、中期キクラディックに遡る集落の遺跡の上に宗教的中心が建てられていることを示している。

「中期キクラディック」というのはキクラデス諸島の考古学における時代区分で、およそBC 2000年~BC 1600年を指します。つまり、イオーニア人の到来以前ということです。のちのイオーニア人がここを神聖視する理由になった何かがイオーニア人到来以前にすでにあったのかもしれません。




(キクラデス諸島)