神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

スミュルナ(5):スミュルナの市壁

英語版Wikipedia「Fortifications of ancient Smyrna。古代スミルナの要塞」によると、スミュルナはBC 9世紀から頑丈な壁に囲まれていました。これはこの時代では比較的まれなことだったそうです。そのように頑丈な市壁(城壁というべきでしょうか?)に守られたスミュルナだったのですが、ある時に他国の者たちに占領されてしまいました。それは、このようなことがあったからです。

内乱を起して敗れ祖国を追われたコロポン人の一隊を、アイオリス人が受け入れてやったことがあった。


ヘロドトス著 歴史 巻1、150 から

この頃のギリシア都市の多くでは王権が弱体化し、その代わりに複数の貴族の家々が政権を求めてさかんに抗争を繰り返していました。その過程で、抗争に敗れた側が亡命することも多かったようです(その一例を「ミュティレーネー(10):アルカイオス」に書きました)。コロポーンからの亡命者たちにも同じような事情があったと想像します。コロポーンはイオーニア人の植民市で、スミュルナの南側に位置していました。

(アイオリス人の町は赤で、イオーニア人の町は紫で示しました。)

ところがその後このコロポンの亡命者たちは、スミュルナの市民が城壁の外でディオニュソスの祭を行なっているところを見すまして門を閉め、町を占領してしまったのである。


ヘロドトス著 歴史 巻1、150 から

おそらく、アイオリス人とイオーニア人とでは祭の時期が異なっていたのでしょう。それで、スミュルナのアイオリス人たちが城壁の外でディオニューソス神(酒の神)を祭を行うにあたって、コロポーン人たちを城壁の中に残していったのだと思います。そこを見計らってコロポーン人たちがスミュルナ人たちを閉め出してしまったわけです。当然、スミュルナの人々は町を奪還しようとしますが、城壁が堅固で進入出来ません。そこで、彼らは他のアイオリス人の町々に助けを求めたので、それらの町々は救援の兵を出しました。しかしやはり町を奪還することは出来ませんでした。

アイオリス人は全力をあげてその救援に駆け付けたが、結局協定が成立し、イオーニア側は家財一切を引き渡す代りに、アイオリス人はスミュルナを退去することになった。スミュルナ人が協定に従ったので、アイオリスの十一市は分担して彼らを収容し、それぞれの町で市民権を与えたのであった。


ヘロドトス著 歴史 巻1、150 から


英語版Wikipediaの「スミュルナ」の項目によれば、この出来事はBC 688年に起きたそうです。こうしてスミュルナはアイオリス人の町からイオーニア人の町になったのです。


その後しばらくして、東のリュディア王国からの軍勢がスミュルナ目指して、押し寄せてきました。この時のリュディア王はメルムナス家の初代の王ギュゲースでした。

さて、このギュゲスも、王位に即いてから、ミレトスとスミュルナに軍を進め、コロポンの市街を占領するということがあったが、彼の在位三十八年の間、それ以外には大した事蹟もないので、彼については以上の記述にとどめたいと思う。


ヘロドトス著 歴史 巻1、14 から

しかし、ギュゲースのスミュルナ攻撃は失敗します。リュディア軍はヘルモス川のほとりで敗北を喫し、引き上げたのでした。

スミュルナ(4):ホメーロス

もっとも、ホメーロスを自分の町の出身だと主張する町はスミュルナ以外にも多くありました。古代のホメーロスの伝記のひとつには次のように書かれているということです。

さてホメーロスを、ピンダロス Pindaros はキオス Chios の人、スミュルナ Smyrna の人と言い、シモーニデース Simonides はキオスの人、アンティマコス Antimachos とニーカンドロス Nikandros はコロポーン Kolophon の人、哲学者アリストテレースイオス Ios の人、歴史家エフォロス Ephoros はキューメー Kyme の人と言う。またある者は、キュプロス島のサラミース Salamis の人、ある者はアルゴス Argos の人、さらにアリスタルコス Aristarchos とトラーキアのディオニューシオス Dionysios Thrax はアテーナイの人とした。


高津春繁著「ホメーロスの英雄叙事詩」に引用された古代のホメーロス伝のひとつの孫引き


ホメーロス


ではありますが、このブログでは信ぴょう性を脇に置いて、こんな伝承がある、ということをご紹介することを基本姿勢としていますので、ホメーロスをスミュルナに関わる人物として書いていきます。


ホメーロスの生涯についてですが、古代から伝わる伝記がいくつかあるそうです。その中のひとつ「ホメーロスとヘーシオドスの歌競べ」は岩波文庫のヘーシオドス「仕事と日」

に収録されています。もうひとつ、ヘーロドトスが書いたと主張しているが実は他人が書いたというホメーロス伝、については英語版のWikipediaにそのあらすじが載っていました。この2つをご紹介したいと思います。


まず、「ニセ」ヘーロドトス作のホメーロス伝からいきます。

  • アイオリスの都市キューメーにメラノポスという男がおり、その娘の名はクレーテーイスといいました。クレーテーイスはアルゴスから来た男によって妊娠し、スミュルナの近郊でホメーロスを生みました。私生児だったということです。ホメーロスは最初メレーシゲネースと名付けられました。
  • 長じて彼は教師であるペーミオスとともに船でイタケー島に行き、そこでメントールという人のところに滞在しました。のちにホメーロスはメントールへの感謝の気持ちから、メントールを自作の「オデュッセイアー」の登場人物の中に含めました。イタケー島滞在中に彼は目の病にかかり、イタケーから帰国する旅の途中、イオーニアのコロポーンで失明しました。このことから彼はホメーロスと呼ばれることになりました。その後、彼は生計を立てるために叙事詩を作り始めました。
  • 母方の祖父の町であるキューメーの市民権を得ようとしましたが失敗したので、ホメーロスポーカイアに移住しました。そこでは別の先生であるテストリデースが、彼の詩を書きとめる権利と引き換えに彼に食事と宿泊場所を提供すると提案してきました。ホメーロスはそれを受け入れざるを得ず、テストリデースに「イーリアス」と「オデュッセイアー」を歌って聞かせました。
  • その後テストリデースはキオスに移り、そこでホメーロス叙事詩をあたかも自作の詩のようにみせて朗唱し、有名になりました。ホメーロスはこのうわさを聞いて、自分もキオスに行くことにしました。するとテストリデースはキオスから急いで逃げていきました。キオスホメーロスは家庭教師としての仕事を見つけました。そこで彼は「カエルとネズミの戦い」など、子供向けを想定した叙事詩を創作しました。その後サモスにも旅行しました。アテーナイへの航海中にイオス島ホメーロスはその生涯を終えました。


(上の伝記に登場する地名の位置を示しました。)



次に「ホメーロスとヘーシオドスの歌競べ」のあらすじを紹介します。

  • この伝記ではホメーロスがどこで生まれたかとか両親の名前とかについて確定的なことを述べていません。ホメーロスは「マルギーテース」を作詩したのち、吟遊詩人として各地を遍歴していました。あるとき彼は、デルポイまで足をのばして、その神託に自分の素性を尋ねました。デルポイの巫女はこう答えました。「汝の母親はイオス島の生まれである。汝はその島で生涯を閉じるであろう。幼き子供らのかける謎に注意せよ。」そこでホメーロスはイオス島に行くことだけは避けて遍歴を続けました。
  • その頃、エウボイア島のカルキスの王アンピダマースの葬送競技が行われ、それには叙事詩のコンテストも含まれていました(この王はレーラントス戦争で戦死したのでした。レーラントス戦争はBC 8~7世紀の出来事なので、この伝記が正しければホメーロスはこの時代の人ということになります)。ホメーロスはそれに参加しました。偶然にもヘーシオドスもその競技に参加し、ヘーシオドスがホメーロスに勝ったのでした。
  • その後もホメーロスは自作の詩を朗唱しつつ諸国を巡り歩きました。そして「イーリアス」と「オデュッセイアー」を作詩しました。アテーナイに来たときはアテーナイ王メドーンの歓待を受けたといいます(アテーナイ王メドーンは、イオーニア植民が始まる頃(BC 10世紀)の伝説上の王ですので、レーラントス戦争の時代より200~300年ほどさかのぼります。この伝記の矛盾しているところです)。
  • アテーナイを去ってコリントスに行き、詩を口演して大好評を博しました。次にアルゴスを訪れて「イーリアス」の中のアルゴスに関わる箇所を朗唱しました。アルゴスの人々はそれを喜び、彼に高価な贈物をし、さらに青銅の像を建てて彼を称えました。
  • ホメーロスは、アルゴスにしばらく滞在したのち、船でデーロス島に渡り、その地で行わていたアポローン神の大祭の行事に参加しました。そこで彼は「アポローンへの讃歌」を披露しました。すると居合わせたイオーニアの人々はホメーロスを各都市共通の市民とすることを決しました。さらにデーロス人たちは、この讃歌を白板に記して、アルテミスの神域に奉納したのでした。
  • 高齢になったホメーロスイオス島に渡って滞在しました。ある日ホメーロスは海辺に座っていると、子供たちが漁から帰ってくるのに出会いました。彼は子供たちに何が獲れたのか、と尋ねました。すると子供たちは「捕えたものは捨ててしまい、捕えていないものは持っているよ」と答えました。ホメーロスにはその意味が分かりませんでした。これこそが昔デルポイの神託ホメーロスに警告した「幼き子供らのかける謎」なのでした。子供たちにその意味を尋ねると、子供たちは「虱(しらみ)を取っていたが、取った虱は捨ててきたが、取り損ねた虱はまだ身に着いているんだ」と答えたのでした。ホメーロスは、この地で生涯を閉じるという神託を思い出して、みずからの墓に刻む碑銘の詩を作りました。そして、その3日後に死んだということです。


(上の伝記に登場する地名の位置を示しました。)


どちらの伝記もホメーロスが没した場所をイオス島としているところが注目されます。イオス島で没したというのは史実なのかもしれません。

イオス島

スミュルナ(3):アイオリス人の到来

ギリシア人でスミュルナに植民したのは、ギリシア人の一派であるアイオリス人でした。しかし、その植民に関する物語を、残念ながら私は見つけることが出来ませんでした。さて、スミュルナはアイオリス人の都市連合の一員となりました。その都市連合にはまずアイオリス人の町の中で一番大きいキューメーが属し、そのほかにラリッサ、ネオン・テイコス、テームノス、キラ、ノティオン、アイギロエッサ、ピタネー、アイガイアイ、ミュリナ、グリューネイア
の町々が属していました。

(アイオリスの町々。各都市の位置は英語版のWikipediaで調べました。しかしノティオンだけはその位置が納得がいかないので上の地図には載せていません。)


上の地図から分かるのは、スミュルナがアイオリス人の町々の中の最南端に位置していることです。おそらくアイオリス人たちは大陸より前にレスボス島(上の地図でミュティレーネーメーテュムナがある島です)に植民したことでしょう。そうすると、レスボス島に近い町々、たとえばピタネーとかミュリナとかキューメーという町々が次に創建され、スミュルナやアイギロエッサがその後、創建されたと推測されます。ここより南はイオーニア人たちの町々がありました。スミュルナはイオーニアとの境近くに創建されたわけです。


スミュルナの初期の歴史は、例によってまったく分かりません。それで、なるべく古い時代のことの伝承を探したところ、詩聖ホメーロスがスミュルナで生まれた、という伝承を見つけました。ホメーロス叙事詩イーリアス」と「オデュッセイアー」を作ったと言われる伝説上の詩人です。ホメーロス自身がいつの時代の人なのかはっきりしないので、この伝承自体もいつの時代のことを扱っているのかはっきりしません。私は、ヘーロドトスが「歴史」の中で

ヘシオドスやホメロスにしても、私よりせいぜい四百年前の人たちで、それより古くはないとみられる・・・・


ヘロドトス著 歴史 巻2、53 から

と述べているのを根拠にBC 9世紀頃の人ではないか、と考えています。というのはヘーロドトスがBC 450年頃活躍していたので、そこから400年さかのぼって850年頃ではないか、と考えたからです。


ホメーロスは本当の名前をメレーシゲネースというという伝承が広く伝わっており、一方、スミュルナの近くにはメレース川という川がありました。メレーシゲネースという名前は「メレース生まれの男」という意味なので、ここからホメーロスがスミュルナのメレース川のほとりで生まれた、あるいは、メレース川の神の子として生まれた、という伝説が出来たようです。スミュルナの近くにはホメーロスが詩作する際に滞在したという洞窟や、ホメーロスを祭った神殿があったということです。また、ホメーロスという名前はスミュルナの言葉で「盲人」のことを意味し、メレーシゲネースは盲目になった後、ホメーロスと呼ばれるようになったという伝説もあります。以下は、そのような伝説のひとつからの引用です。

真先に挙げるべきはスミュルナの住民の主張であって、そのいうところによれば、ホメーロスはスミュルナの町の傍らを流れるメレース河とニンフなるクレーテーイスの子であって、初めはメレーシゲネースの名で呼ばれていたが、盲目となった後はホメーロスと名が変った。この国では盲人のことをそのように呼ぶのが習慣であるからだという。(中略)
一説によればホメーロスと呼ばれたのは、(中略)盲目の故であるとする説もある。アイオリス地方の方言では、盲人をそのように呼んだからである。


ホメーロスとヘーシオドスの歌競べ」より。岩波文庫のヘーシオドス「仕事と日」に収録。

スミュルナ(2):リュディア人のウンブリア移住

ヘーロドトスはその「歴史」のなかで、リュディアには3つの王朝があったと述べています。

  • 最初の王朝はアテュスの子リュドスが開いたもので、リュディア人の名はこのリュドスに由来すると述べます。その王朝が何年続いたのかをヘーロドトスは述べていません。
  • 次の王朝はヘーラクレースの子孫にあたるアグロンが開いたもので、22代505年間続いたといいます。ここでギリシア神話のヘーラクレースが登場していますが、おそらくはギリシア人から見るとヘーラクレースに似ていると思われるリュディア人の神、または英雄のことを言っているのだと思います。
  • 3番目の最後の王朝は、ギュゲスが開いたものでヘーロドトスはこの王朝代々の王の名前と事蹟を「歴史」の中で述べています。それによれば、ギュゲース、アルデュス、サデュアッテス、アリュアッテス、クロイソスというのが代々の王の名前です。

さて「(1):リュディア人のスミュルナ」でご紹介した話では、リュディア人の半数が住むべき土地を求めてスミュルナから出航したのは「マネスの子アテュスが王の時」だということでした。すると、この王は3番目の王朝に属していないことは明らかです。現代の歴史家は3番目の王朝の始祖ギュゲースを実在の人物と考えており、アッシリアの文書に登場する「ググ」と同一人物としています。そこからギュゲースの在位の年代がおぼろげながら分かり、それがBC 690年頃と推定されています。ですので「マネスの子アテュスが王の時」というのはBC 690年より以前のことになります。ギリシア人の小アジア植民はだいたいBC 10世紀頃と推定されるので、BC 690年ではまだ届かないのですが、かなり近づいてきます。


さらにもし、「マネスの子アテュス」が最初の王朝の始祖リュドスの父親アテュスと同一人物であるとすると、2番目の王朝が505年続いたということですので、BC 690年+505年=BC 1195年で、最初の王朝はBC 1195年以前に存在したことになります。そうだとすれば、これは確実にギリシア人到着より古いことになります。2番目の王朝が続いたのが505年というのが長すぎると考えて200年ぐらいと考えても、BC 890年でBC 9世紀初頭なので、最初の王朝の始祖の父親であるらしいアテュスはBC 10世紀以前になりそうです。私は以上のことから、リュディア人の半数が住むべき土地を求めてスミュルナから出航した時にはスミュルナにギリシア人はいなかっただろう、と推測しています。


さて、ここでこの物語に戻ります。

国を出る籤に当った組は、スミュルナに下って船を建造し、必要な家財道具一切を積み込み、食と土地を求めて出帆したが、多くの民族の国を過ぎてウンブリアの地に着き、ここに町を建てて住み付き今日に及ぶという。彼らは引率者の王子の名にちなんで、リュディア人という名称を変え、王子の名をとってテュルセニア人と呼ばれるようになったという。


ヘロドトス著 歴史 巻1、94 から

この移住組の人々は最終的にウンブリアに住み付いた、ということでした。このウンブリアというのはどこでしょうか? 実はウンブリアというのは今もイタリアの地名として存在します。ペルージャを首都とする州がウンブリア州です。

さらに、この移住組が移住先のウンブリアでテュルセニア人と呼ばれるようになった、とありますが、ヘーロドトスの頃(BC 5世紀)ギリシア人にとってテュルセニア人とはエトルリア人のことを指していました。エトルリア人というのはかつてウンブリア州の西隣のトスカーナ州に住んでいた民族です。ですので、移住組の人々がウンブリアに住み付いてテュルセニア人と呼ばれるようになった、というのは大まかに見ればつじつまの合う話です。BC 5世紀にギリシア人がウンブリアと認識していた土地の広がりが、今のウンブリア州とまったく同じだったとは、とても思えません。土地の位置の細かい相違は目をつぶっても構わないでしょう。


では、本当に太古に今のトルコにあたるリュディアからイタリア中部に移住した民族があったのでしょうか? これについては確実なことは分かりません。エトルリア語の碑文は現在まで残っているのですが、完全には解読されていません。解読されていませんが、インド・ヨーロッパ語族には属さない、というのが有力な説です。一方、リュディア語はインド・ヨーロッパ語族アナトリア語派に属するというのが定説なので、この2つの言語は親族関係にはないことになります。ですので、リュディア人の一部が移住してエトルリア人になったとは考えにくいです。

スミュルナ(1):リュディア人のスミュルナ


スミュルナは、トルコ第3の都市イズミールにかつてあったギリシアの植民市です。現在の地名イズミールも、元の名前スミュルナに由来するそうです。



このスミュルナの起源ですが、ギリシア神話ではアマゾーン族の一人スミュルナーという女性がこのスミュルナを創建したとしています。また、エペソスの地区の中にスミュルナという地区があるそうで、これも同じアマゾーンのスミュルナーが創建したということです。エペソスについてはアマゾーン族の女王エポスが創建したという説もあり、もし両方の説を受け入れるならば、先にスミュルナーがエペソス内のスミュルナ地区を建設し、その後エポスがスミュルナ地区を含むもっと大きなエペソスを建設した、ということになるのでしょう。


アマゾーン族といった空想的な伝説ではなく、もう少し現実的な伝説はないでしょうか? それを探っていたところ、ヘーロドトスの伝える次のような伝説を見つけました。これはリュディア王国に関わる伝説ですが、その一か所にスミュルナの名前が登場します。リュディア王国というのはサルディスを首都とする、トルコの内陸部にあった国です。

 マネスの子アテュスが王の時に、リュディア全土に激しい飢饉が起った。


ヘロドトス著 歴史 巻1、94 から

この飢饉は18年間も続いたといいます。

 しかしそれでもなお天災は下火になるどころか、むしろいよいよはなはだしくなってきたので、王はリュディアの全国民を二組に分け、籤によって一組は残留、一組は国外移住と決め、残留の籤を引き当てた組は、王自らが指揮をとり、離国組の指揮は、テュルセノスという名の自分の子供にとらせることとした。


ヘロドトス著 歴史 巻1、94 から

つまり人減らしのために国民の半分を、住む土地を求めてさすらう移住の旅に出すことにしたのです。

国を出る籤に当った組は、スミュルナに下って船を建造し、必要な家財道具一切を積み込み、食と土地を求めて出帆したが、多くの民族の国を過ぎてウンブリアの地に着き、ここに町を建てて住み付き今日に及ぶという。彼らは引率者の王子の名にちなんで、リュディア人という名称を変え、王子の名をとってテュルセニア人と呼ばれるようになったという。


ヘロドトス著 歴史 巻1、94 から

ここでスミュルナの名前が登場します。スミュルナはリュディアの移住民たちが船出した港だというのです。この記事を素直に読めば、この時のスミュルナはリュディア王国の都市のように読めます。そうでなくても、スミュルナがリュディア王国に服属しているとか、少なくともリュディア王国に友好的な立場にあったのだ、と考えられます。


私は、この物語が想定している時代は、ギリシア人がスミュルナに到着するより前の時代だろうと、考えています。その理由は、この物語はその最初で時代を「マネスの子アテュスが王の時」と示しているからです。この時代の特定については、次回、ご説明したいと思います。

スミュルナ:目次

1:リュディア人のスミュルナ

スミュルナは、トルコ第3の都市イズミールにかつてあったギリシアの植民市です。現在の地名イズミールも、元の名前スミュルナに由来するそうです。このスミュルナの起源ですが、ギリシア神話ではアマゾーン族の一人スミュルナという女性がこのスミュルナを創建したとしています。また、エペソスの地区の中にスミュルナという地区があるそうで、・・・・


2:リュディア人のウンブリア移住

ヘーロドトスはその「歴史」のなかで、リュディアには3つの王朝があったと述べています。最初の王朝はアテュスの子リュドスが開いたもので、リュディア人の名はこのリュドスに由来すると述べます。その王朝が何年続いたのかをヘーロドトスは述べていません。次の王朝はヘーラクレースの子孫にあたるアグロンが開いたもので、22代505年間続いたといいます。・・・・


3:アイオリス人の到来

ギリシア人でスミュルナに植民したのは、ギリシア人の一派であるアイオリス人でした。しかし、その植民に関する物語を、残念ながら私は見つけることが出来ませんでした。さて、スミュルナはアイオリス人の都市連合の一員となりました。その都市連合にはまずアイオリス人の町の中で一番大きいキューメーが属し、そのほかにラリッサ、ネオン・テイコス・・・・


4:ホメーロス

もっとも、ホメーロスを自分の町の出身だと主張する町はスミュルナ以外にも多くありました。古代のホメーロスの伝記のひとつには次のように書かれているということです。さてホメーロスを、ピンダロス Pindaros はキオス Chios の人、スミュルナ Smyrna の人と言い、シモーニデース Simonides はキオスの人、アンティマコス Antimachos と・・・・


5:スミュルナの市壁

英語版Wikipediaの「Fortifications of ancient Smyrna。古代スミルナの要塞」によると、スミュルナはBC 9世紀から頑丈な壁に囲まれていました。これはこの時代では比較的まれなことだったそうです。そのように頑丈な市壁(城壁というべきでしょうか?)に守られたスミュルナだったのですが、ある時に他国の者たちに占領されてしまいました。それは、このようなことがあったからです。・・・・


6:荒廃と復興

スミュルナ占領に失敗したリュディア王ギュゲースは、その後、北からやってきた遊牧民のキンメリア人と戦って死にました。キンメリア人はその後西へと進んでエーゲ海岸沿いを襲撃していくのですが、スミュルナがキンメリア人に襲われたのかどうか、英語版のWikipediaを調べても分かりませんでした。ヘーロドトスもそのことについては何も書いていません。キンメリア人が南のエペソスを襲撃したのは確かです。・・・・


7:ミムネルモス(1)

スミュルナには、アレクサンドロス大王の指示によって建設された新スミュルナと、それまでの旧スミュルナの2つの町がありました。今回は旧スミュルナの盛期を生きたスミュルナ人のひとりをご紹介します。詩人のミムネルモスは、後世の人名辞典スーダによれば、第37オリンピアード(BC 632〜29年)に盛りを迎えていたということですので、その時40歳だったとすれば・・・・


8:ミムネルモス(2)

ネムルモスより約300年後の、エジプトのアレクサンドリアに集まったギリシア人の学者たちは、往古の詩人たちの詩集を編纂したのですが、ミネムルモスの分は2冊の本にしかなりませんでした。ステーシコロスという詩人の分は26冊もあったということです。ここから推測するに、ミネムルモスは寡作の詩人だったようです。この2冊の本のうちの1冊が「ナンノ」という名前を付けられました。・・・・


9:女神ローマの発明

スミュルナには、アレクサンドロス大王の指示によって建設された新スミュルナと、それまでの旧スミュルナの2つの町があったのでした。旧スミュルナについては代表的な人物として詩人のミムネルモスをご紹介しました。そこで新スミュルナについても何か代表になりそうな人物を探したのですが、私の探し方が悪いのか、適当な人物が見つかりませんでした。そこで、・・・・

タソス(11):その後のタソス

格闘家テアゲネースの晩年は、自身の華々しい活躍にもかかわらず、タソスの衰退期にあたっていました。タソスはペルシア戦争後、アテーナイを盟主とするデーロス同盟に参加したのですが、アテーナイは自身の勢力が増大するにつれてタソスの内政に干渉し始め、タソスの命綱であった金鉱を明け渡すように圧力をかけてきたのでした。このためタソスはアテーナイに対して反乱を起こしました。

その後しばらくして、タソス島市民がアテーナイから離反する事件が起った。紛争の原因はタソス人が対岸のトラーキア地方に所有していた通商基地と金脈の帰属権の問題であった。アテーナイ勢は船隊を率いてタソス島を攻め、海戦を挑んで叛乱軍を破り、さらに上陸作戦をおこなった。


トゥーキュディデース著「戦史」巻1、100 から


これに対してタソスはスパルタに救援を乞いました。なお、下記の引用にある「ラケダイモーン」というのはスパルタを中心とする地方の名前です。「ラケダイモーン」をそのまま「スパルタ」と読み替えてもかまいません。また「アッティカ」というのはアテーナイを中心とする地方の名前です。

一方、タソス島市民は海陸の戦において敗れ、籠城の止むなきにいたって、ラケダイモーン人の干渉をもとめ、どうかアッティカ領に侵入して自分らの危急を救って貰いたい、と要請した。


トゥーキュディデース著「戦史」巻1、101 から

スパルタはタソスを救援するためにアテーナイに侵攻しようとしました。ところが折悪しく、この時にスパルタに地震が発生しました。そしてそれを機に、今までスパルタ人に支配されていた周住民(ペリオイコイ)が反乱を起こし、スパルタは軍を派遣するどころではなくなってしまいました。

ラケダイモーン人は、アテーナイ側には内密に、救援を約しまさに実行にうつさんとしたとき、障害にうちあたった。この時地震がおこり、これに乗じたラケダイモーンの農奴らや、トゥーリア人アイタイア人など周住民らが叛乱をおこしてイトーメーの山塞に立籠ったためである。(中略)ともあれ、イトーメーにたて籠ったかれらを相手にラケダイモーン人は戦闘状態に入ってしまったので、タソス島の市民は籠城三年目に次の条件のもとにアテーナイ勢に降伏した。すなわち、城壁を取除くこと、船舶を譲渡すること、賠償金を査定通り即刻支払い、査定された年賦金を爾後納入すること、トラーキア本土の利権と金脈の所有権を放棄すること。


トゥーキュディデース著「戦史」巻1、101 から


こうしてタソスの繁栄の基盤であった金鉱はアテーナイの物になってしまい、タソスはアテーナイに隷属することになりました。この時タソスを攻略したアテーナイの将軍はキモーンといい、彼は、第一次ペルシア戦争でマラトーンの戦いで勝利を得たアテーナイの将軍ミルティアデースの息子でした。

その後アテーナイから離反したタソス島の人々を海戦で破って三十三隻の船を捕え、タソスの町を陥いれその対岸にある金鉱をアテーナイのものとしてタソスの人々が支配していた地方を占領した(前465年)。


プルターク英雄伝(七):キモーン」河野与一訳より


このキモーンはアテーナイのためにタソスの金鉱を手に入れたにも関わらず、アテーナイの政敵たちによって告訴されています。その理由は、もっと侵略しなかったから、というものでした。

 そこからは容易にマケドニアに侵入して広大な地域を分割させる機会があると思われたのにそれを実行しようとしなかったために、マケドニアアレクサンドロス(1世。初めペルシャに屈服していたが後にギリシャに好意を示しその文化を輸入してオリュンピア競技に出場することを許された。)から賄賂を取ってその言う事を聴いたと非難され、政敵が一致してキモーンを告訴した(前463年)。


プルターク英雄伝(七):キモーン」河野与一訳より


当時のアテーナイ人たちがいかに驕慢であったかを示す記事です。私たちはこの記事から、民主主義は好戦的になり得る、ということを教訓として読み取るべきなのかもしれません。


その後、タソスはペロポネーソス戦争において一度、アテーナイの支配を離脱してスパルタ側につきますが、またアテーナイ側に戻ります。さらにその後には、有名なアレクサンドロス大王の父親であるピリッポスによってマケドニア支配下に入ります。タソスはこのようにいろいろな支配者を迎えることになり、その独立は失われてしまいました。


私のタソスについての話はここで終わりにします。読んで下さり、ありがとうございます。