神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

タソス(4):アルキロコス(1)

タソス市の建設者であったテレシクレースにはアルキロコスという名の息子がいました。彼はのちに古代ギリシアで有名な詩人になりました。もっとも彼はテレクシレースの正妻の子ではなかったようです。彼の生涯に関する伝承はいくつかありますが、英語版のWikipediaのアルキロコスの項の記述によれば、どれもほとんど信憑性がないそうです。


アルキロコス

とはいえ、このブログでは信憑性をあまり気にせず伝承をご紹介するのが目的ですので、それらを紹介していきます。今回、アルキロコスのことを調べるにあたり藤縄謙三氏(京都大学名誉教授 2000年没、西洋古典学者)の「アルキロコスについて: ギリシア植民時代の詩人」という論説をネット上で見つけました。アルキロコスの詩の断片を多く収録し、アルキロコスに関する情報満載の論説で、大変参考になりました。こんなものを無料で読めることに感謝しております。まずは、そこからアルキロコスがムーサたち(芸術の女神たち。英語での発音はミューズ。ミュージックやミュージアムの語源となる)に出会って詩人になったいきさつを語った伝説を紹介します。


アルキロコスが若かった頃、彼はパロス島で牛の面倒を見て暮らしをしていました。ある日父親テレシクレースの言いつけで牝牛を一頭町に連れていって売ることになりました。彼は早起きして、その牝牛を町へ引いて行きました。その途中で彼は、数名の女性に出会いました。彼は彼女たちは仕事を終えて町へ戻るのだろうと考えて、近づいて話かけ、彼女たちも笑いながら彼に応対しました。ある女性が「その牛を売りに連れてゆくのか」と尋ねました。アルキロコスがその通りだと答えると、「私たちがその牛の対価として相当なものをあなたに支払いますよ」と言うのでした。アルキロコスがその意味を図りかねていると突然、彼女たちも消え、引いていた牝牛も一緒に消えてしまいました。そしてアルキロコスのは足もとには竪琴(リュラー)が置いてあったのでした。しばらく彼はびっくりしたまま佇んでいたのですが、やがて落ち着くと、あの女性たちはムーサたちで、自分に竪琴を授け給うたのだと悟りました。彼は竪琴を拾い上げて、事件を父に報告したのでした。


この伝説はパロス島のアルキロケイオンというBC 3世紀の遺跡で見つかった碑文に書かれていました。アルキロケイオンというのはアルキロコスを神として祭る神殿のことです。アルキロコスは後世のギリシアで神として崇拝されたのでした。


抒情詩の創始者とも言われるアルキロコスですが、抒情詩という言葉から連想される優美なもの、感傷的なものから、彼の詩は遠く離れているようです。今までこのブログで取り上げてきたミュティレーネーのアルカイオスもそうですし、エペソスのヒッポナクスもそうですが、抒情詩人という語感からはかけ離れた詩人が古代ギリシアには多かったみたいです。ところでアルキロコスの詩で現代まで完全に伝わっているものは1つもないそうです。


彼はある断片で自分のことをこう語っています。

われこそはエニュアリオス(軍神)さまの従卒のいちにんにして
また 詩歌女神(ムウサ)がたの麗わしい賜ものにも長(た)けたるもの(ウェスト、断片一)

と歌ったのは、ヘシオドスに間をおかず姿を現わすアルキロコスであった。


ヘシオドス「神統記」 廣川洋一訳 の解説より

アルキロコスは詩人でありながら戦士でもあったのです。次の詩は英語版のWikipediaのアルキロコスの項に引用されていたものの拙訳です。私には戦場を歌った詩のように思えます。

我が魂、我が魂、癒しがたい不幸によってかき乱された全てのものよ、
今はこちらから、そして今はあちらからと、お前に殺到する多くの敵に
耐え、持ちこたえ、正面に迎えよ、間近な衝突の全てに耐えよ。
ためらうな。そしてお前は勝つべきだ。おおっぴらに勝ち誇ることもなく、
あるいは負けて、家の埋みの中で自分を歎きの中に投げ込むこともなく。
度を越さずに、楽しい物事には喜び、つらいときは悲しめ。
男の人生を支配するリズムを理解せよ。

最後の「リズム」というのは、人生の浮き沈みには周期があると考え、それを一種のリズムと捉えているのだそうです。次の詩にもそのリズムのことが歌われているようです。

・・・・かかる惨事は時の移るとともに、
別の人を襲いゆくもの。今は吾らの襲われる順番なので、
 それで吾らは血まみれの傷口を大声で嘆いているのだ。
だが、すぐにも他の人々の所へ移ってゆくだろう。
 さあ諸君、早く女々しい苦痛を追い払って耐えるのだ。


アルキロコスについて: ギリシア植民時代の詩人」藤縄謙三著 より

タソス(3):タソス植民


BC 650年かその少し前、パロス島の住民テレシクレースがデルポイの神託に従って、パロス島の植民希望者を率いてタソス島へ植民しました。このことについて分かっていることはほとんどありません。若干の学者の説によれば、テレシクレースは女神デーメーテールの神官の家系に生まれた、ということです。この時のデルポイの神託なるものが現在まで伝わっています(信憑性は低いそうです。)

テレシクレスよ。パロス人に私が命ずるままに伝えよ。
霧立ちこめる島に、姿明らかなる町を建てよと。


アルキロコスについて: ギリシア植民時代の詩人」藤縄謙三著 より


この植民の時までフェニキア人はタソス島に住んでいたのでしょうか? それともフェニキア人はすでに島から撤退していたのでしょうか? そして代わりに、島の北の陸地に住む好戦的なトラーキア人が島にやって来て住んでいたのでしょうか? ギリシア人たちがタソス島に住み着こうとした時に、元から住んでいた者たちとの間に軋轢はなかったのでしょうか? 戦にはならなかったのでしょうか? 私はこのような疑問を持っていますが、その答えになるような情報を見つけられずにいます。


フェニキア人はタソス島にある金鉱を採掘していましたし、その後タソス島がギリシア人の所有になってからも金鉱は掘り続けられていて、タソス市の主要な収入源であったことから、私はフェニキア人が金鉱を捨てておとなしく撤退する、とは考えられないと思っています。しかし、そうであればフェニキア人とギリシア人(この場合はパロス人)の島の所有をめぐっての戦いの伝承があってもよさそうなのに、それが見つかりません。私の探し方が悪いのかもしれませんが・・・・。


トラーキア人との戦いならば、タソス市創建当時よりは一世代下りますが、それに関する伝承があります。しかし、これがタソス島内での戦いだったのか、それとも大陸側での戦いだったのか、よく分かりません。テレシクレースの息子のアルキロコスは詩人になったのですが、彼は同時に戦士でもあり、トラーキアの部族のひとつであるサイオイ族との戦いに参加し、それに関する詩を残しています。

サイオイの誰かは盾を見つけて、意気軒昂であろう。それを私は
しぶしぶ、藪のところに捨ててきたのだ。非のうちどころのない武具だった。
しかし私自身は救い出せた。どうしてあの盾が気に懸ろう。
盾なんかどうでもよい。もっとよい品を、新たに手に入れよう。


「物語 古代ギリシア人の歴史」周藤芳幸著の「第三章 オリンピックでの優勝をめざして」より


パロス島は良質な大理石の産地として有名でした。有名なミロのヴィーナスはメーロス島(=ミロ島)から出土したのですが、その像の大理石はパロス産の大理石です。そしてタソス島にも同じように良質の大理石が眠っていました。パロスの人びとは金鉱と大理石の鉱脈の二つに魅かれてタソス島に植民したようです。


パロス島の住民はイオーニア系でした。アカイア人に故地(ペロポーネソス半島の北側)を追い出されてアテーナイに一旦避難したイオーニア人たちの一部が、のちにパロス島に植民した、と伝えられています。(「ハリカルナッソス(1):ドーリス人の植民」に関連する記事を書いています。)

タソス(2):テュロスのヘーラクレース

前回ご紹介したように、タソス島にその名を与えたというフェニキア人タソスは、ギリシア神話において、ゼウスに誘拐されたエウローペーを捜索する人の中に加えられました。そしてカドモスの兄弟または甥とされることもありました。

 
ギリシア神話にはそのほかにもタソス島が登場する話があります。あまり重要な位置を占めてはいませんが、話の脇道のようなところで少しタソス島が登場しているのです。それはヘーラクレースの十二の功業のひとつ「アマゾーンの女王ヒッポリュテーの帯」の話の中の挿話のひとつです。ヘーラクレースがヒッポリュテーの持っていた帯を手に入れたのちにタソス島に来て、そこに住んでいるトラーキア人たちを追出し、自分が以前から人質にしていたアルカイオスとステネロスにこの島を与えた、というものです。



(ヘーラクレース)


このアルカイオスとステネロスとは何者で何故ヘーラクレースの人質になっていたかと言えば、ヒッポリュテーの帯を求めて小アジアに行く途中でヘーラクレースの一行はパロス島に寄港したのですが、その時に次のようなことがありました。
 当時パロス島を治めていたのはクレータの王ミーノースの息子であるネーパリオーン、エウリュメドーン、クリューセース、ピロラーオスの兄弟でした。また、ミーノース王の孫のアルカイオスとステネロスもそこに住んでいました。彼らの父親はアンドロゲオースといいミーノースの息子の一人でしたが当時はすでに死んでいました。さて、ヘーラクレースの一行がパロスに上陸した際のこと、ヘーラクレースの部下2人がこれらミーノースの兄弟たちに殺されました。なぜ殺されたのか詳細はよく分かりません。とにかくヘーラクレースは怒り、パロスの町を攻撃しました。この戦争でネーパリオーンとエウリュメドーンは戦死し、残りの2人はヘーラクレースに降伏しました。そして、殺した部下2人の代わりに自分たちの中から2人を連れて行ってもらうようにと申し入れました。そこでヘーラクレースはアルカイオスとステネロスを選んで、以降自分の手下として「アマゾーンの女王ヒッポリュテーの帯」を獲得する冒険に参加することを命じたのでした。


ここで、この挿話の枠になっているヘーラクレースの十二の功業について簡単に紹介します。


ある時、ヘーラクレースは女神ヘーラーから送られた狂気によって自分の子供たちを殺してしまったのでした。その罪を償う方法をデルポイの神託に彼が尋ねたところ神託は、ミュケーナイ王エウリュステウスに12年間奉仕し、彼に命ぜられた仕事(難行)を行なえ、と命じたのでした。そしてその難行を全てやり終えたのちにヘーラクレースは天上の神々に迎えられ不死になるであろうと、神託はつけ加えたのでした。


こうしてヘーラクレースはエウリュステウス(これが臆病なうえに卑劣な男なのでした)に命じられた無理難題をひとつひとつこなすことになるのですが、その中のひとつがアマゾーン族の女王ヒッポリュテーが持っているといわれる帯を持ってくるように、という難題でした。アマゾーンは東の果てに住む、女性だけの勇猛な部族でした。その女王は、女王である印として特殊な帯を持っているのですが、それをエウリュステウスの娘のアドメーテーが欲しがったのでした(このアドメーテーはサモスの伝説にも登場します。「サモス(1):サモス植民」を参照下さい。またアマゾーン族に関しては、「アマゾーン族の女王エポスが小アジアのエペソス市を創建し、エペソスの有名なアルテミス神殿を建設した」という伝承があります。「エペソス(1):エペソスの建設」を参照下さい)。ヘーラクレースは女王ヒッポリュテーの好意によりその帯を手に入れることが出来たのですが、ヘーラクレースに悪意を持つヘーラー女神の横やりによりアマゾーン族と戦争になってしまい、心ならずもヒッポリュテーを殺すことになったのでした。ここではその詳細は省きます。


ところででこのタソスに関する挿話の意味するところは何でしょうか?


伝承によれはBC 650年頃パロス島の人びとがタソスに植民したというので、そのことを神話の時代にまでさかのぼって物語にしたのでしょうか? 上の挿話ではヘーラクレースが来る前にタソスに住んでいたのはトラーキア人ということになっていますが、そうするとタソスが率いてきたフェニキア人たちはどうなったのでしょうか? もちろん神話・伝説は多くの素材から作られたものであって、その話と話の間には矛盾があっても仕方がない、とは思いますが気になります。なお、ギリシア神話の中の年代では、タソスのタソス島への植民のほうがヘーラクレースのタソス島征服よりも先の出来事、ということになっています。


私がこの挿話が気になるのは、タソスには古いヘーラクレースの神殿があるからです。しかもそれはギリシア人がタソス島に住み着く前、フェニキア人たちによって建立されたと伝えられています。ヘーロドトスは以下のように書いています。

私はタソスへも行ったことがあるが、そこには確かにフェニキア人の建立に成るヘラクレスの神社があった。このフェニキア人たちはエウロペを捜索するために船出してきた者たちであったが、その折にタソスに入植したのである。


ヘロドトス著「歴史」巻2、44 から

ギリシア人たちはこの神殿に祭られているヘーラクレースのことをテュロスのヘーラクレースと呼んでいました。テュロスというのは今のレバノンにあったフェニキア人の都市のことで、古代のフェニキア人の世界の中心地のひとつでした。

ヘーロドトスはテュロスにも行っており、そこにはタソスの神殿と同じ神を祭る神殿があったと報告しています。彼の報告によればテュロスにはヘーラクレースの神殿が2つあり、そのうちの1つが「タソスのヘーラクレース」の神殿であった、ということです。

 私はこの件に関して正確な知識を与えてくれる人に会いたいと思い、海路フェニキアテュロスまで渡ったことがある。ここにヘラクレスの神殿があると聞いたからである。(中略)私はこの神の祭司たちに会い、神殿の建立以来どれほどの時が経っているかを訊ねたのであったが、彼らのいうところもギリシアの所伝と一致せぬことが判った。祭司たちの話では、この神の社はテュロスの町の創設と同時に建立されたものであり、彼らがテュロスに住みついて以来今まで二千三百年になる、というのだからである。
 私はテュロスで「タソスのヘラクレス」の異名で知られる、別のヘラクレス社も見た。


ヘロドトス著「歴史」巻2、44 から

上の引用で「私はこの件に関して正確な知識を与えてくれる人に会いたいと思い」とある中の「この件」とは、ヘーラクレースの生きていた時代の古さについてです。ヘーロドトスはヘーラクレースがいつ生きていたのかを知りたかったのですが、ここには込み入った事情がありそうなので、ここでは深入りしないようにします。さて、以上のことからフェニキアの都市テュロスに祭られていたヘーラクレースがタソスでも祭られていた、ということが分かります。しかしだからといって、フェニキア人がギリシアの神話を信じていた訳でもなく、ギリシアの神(この場合は英雄神)を崇拝していた訳でもありません。この神はフェニキアメルカルトという神であったと推定されています。テュロスの守護神とされていた神です。それをギリシア人が自分たちのヘーラクレースと同一視したのでした。



(メルカルト神)


もし上で紹介した「ヘーラクレースがアルカイオスとステネロスにタソス島を与えた」という伝承が、このメルカルトの事績を表しているとしたら、この伝承の持つ意味が見えてくるような気がします。ひょっとするとこれは、メルカルト神によるタソスのフェニキア人王家創建の伝説が元になっていたのではなかったでしょうか。

タソス(1):フェニキア人のタソス

タソス島はエーゲ海の北の端に浮かぶ島です。


タソスがギリシア人のものになったのは、BC 650年頃と比較的遅いです。では、それまではこの島にどの民族が住んでいたかといいますと、それはフェニキア人だったということです。こんなところにまでフェニキア人が来ていたか、と思うと意外な気がします。というのはBC 650年頃、東も西も南もギリシア人が住みついており、北側は野蛮なトラーキア人が住んでいる、という状況で、フェニキア人はここでは孤立していたからです。


しかしかつてのエーゲ海では、ギリシア人ではなくフェニキア人とカーリア人が我が物顔で活躍していたらしいです。BC 5世紀の歴史家トゥーキュディデースは次のように書いています。

当時島嶼にいた住民は殆どカーリア人ないしはポイニキア人であり、かれらもまたさかんに海賊行為を働いていた。これを示す証拠がある。今次大戦(注:これはペロポネーソス戦争のこと)中にデーロス島がアテーナイ人の手で清められ、島で死んだ人間の墓地がことごとく取除けられたとき判明したところでは、その半数以上がカーリア人の墓であった。これは遺体と共に埋められていた武器や、今日なおカーリア人がおこなっている埋葬形式から判った。


トゥーキュディデース著「戦史」巻1、8 から

上の引用中で「ポイニキア人」とあるのはフェニキア人のことです。


彼らはタソス島に金鉱があるのを見つけて、そこに住みついたのでした。

 私自身もこれらの鉱山を見たことがあるが、その中でも特に異彩を放っているのはタソスなる者を指揮者としてはじめてこの島に植民したフェニキア人の発見した鉱山である――なおこの島の現在の名はタソスというフェニキア人の名に因って命名されたもので、このフェニキア人の鉱山は、タソス島のアイニュラおよびコイニュラと呼ばれている二つの場所の中間にあって、遥かにサモトラケ島を望む大山であるが、金鉱探しのためにすっかり掘り崩されてしまっている。


ヘロドトス著「歴史」巻6、47 から

上の引用によれば、タソスの名前は、そこに植民したファニキア人の一団の指導者の名前に由来する、とのことです。


タソス島にかつてフェニキア人が住んでいた理由づけをギリシアの神話体系の中で行うために、古代のギリシア人たちはこのフェニキア人たちをエウローペーの探索に結びつけました。エウローペーの探索については「テーラ(3):エウローペーを探すカドモス」を参照下さい。ヘーロドトスは以下のように伝えています。

このフェニキア人たちはエウロペを捜索するために船出してきた者たちであったが、その折にタソスに入植したのである。


ヘロドトス著「歴史」巻2、44 から




(左:エウローペー)

タソス:目次

1:フェニキア人のタソス

タソス島はエーゲ海の北の端に浮かぶ島です。タソスがギリシア人のものになったのは、BC 650年頃と比較的遅いです。では、それまではこの島にどの民族が住んでいたかといいますと、それはフェニキア人だったということです。こんなところにまでフェニキア人が来ていたか、と思うと意外な気がします。・・・・


2:テュロスのヘーラクレース

前回ご紹介したように、タソス島にその名を与えたというフェニキア人タソスは、ギリシア神話において、ゼウスに誘拐されたエウローペーを捜索する人の中に加えられました。そしてカドモスの兄弟または甥とされることもありました。ギリシア神話にはそのほかにもタソス島が登場する話があります。あまり重要な・・・・


3:タソス植民

BC 650年かその少し前、パロス島の住民テレシクレースがデルポイの神託に従って、パロス島の植民希望者を率いてタソス島へ植民しました。このことについて分かっていることはほとんどありません。若干の学者の説によれば、テレクシレースは女神デーメーテールの神官の家系に生まれた、ということです。この植民の・・・・


4:アルキロコス(1)

タソス市の建設者であったテレシクレースにはアルキロコスという名の息子がいました。彼はのちに古代ギリシアで有名な詩人になりました。もっとも彼はテレクシレースの正妻の子ではなかったようです。彼の生涯に関する伝承はいくつかありますが、英語版のWikipediaアルキロコスの項の記述によれば、どれもほとんど・・・・


5:アルキロコス(2)

前にも述べましたように、アルキロコスの生涯についての伝承はほとんど信憑性がないとのことですが、それでも彼の生涯をたどる努力をしてみましょう。彼は、タソスの植民市創立者であったパロス人の貴族テレシクレースの子としてパロス島で生まれました。母親の名前はエニポーといい奴隷であったといいます。・・・・


6:150年の空白

詩人アルキロコスが死んだのがBC 645年頃と推定されています。タソスについて次に書くことが出来るネタが、ミレトス人ヒスティアイオスによるBC 493年のタソス攻撃ですが、この間、約150年もあります。ここを何も書かずに次に進むのは何か気が引けます。とは言っても、私にはネタがないですし、どうしたものかと思います。・・・・


7:ペルシアの支配

BC 498年、小アジアに位置するギリシア人の諸都市、いわゆるイオーニア地方と、その北にあるアイオリス地方はペルシア王国の支配に対して反乱を起しました。これが後世、イオーニアの反乱と呼ばれることになる事件です。イオーニア地方やアイオリス地方から離れてしたタソスには、当初、この反乱の影響はありませんでした。・・・・


8:大軍の通過

タソスを占領したフェニキアの艦隊はその後西へアテーナイを目指して進みましたが、途中で嵐にあって艦船や兵士の多数を失ったため、遠征を中止して撤収しました。その後BC 490年に再度、遠征軍が組織されましたが、前回の嵐に懲りて今度はエーゲ海北岸に沿って進むことを避けて、エーゲ海の真ん中を島伝いに進むことにしました。・・・・


9:戦時下の古代オリンピック

この回では、このクセルクセスがギリシア本土に侵攻した年(BC 480年)のオリンピックでボクシングで優勝したタソス人テアゲネースのことを書くつもりでいました。しかし、書こうとした時に「あれ、ギリシア本土が丸ごとペルシアの支配下にされるかどうかという、この危急存亡の時に、オリンピックなんか・・・・


10:テアゲネース

このBC 480年の古代オリンピックで、ボクシングで優勝したのがタソスの人テアゲネースでした。テアゲネースについては周藤芳幸氏の「物語 古代ギリシア人の歴史」のひとつの章に、テアゲネースの一代記の形で紹介されています。ですから、それをそのままここに引用すればここでの記述は間に合うのですが・・・・


11:その後のタソス

格闘家テアゲネースの晩年は、自身の華々しい活躍にもかかわらず、タソスの衰退期にあたっていました。タソスはペルシア戦争後、アテーナイを盟主とするデーロス同盟に参加したのですが、アテーナイは自身の勢力が増大するにつれてタソスの内政に干渉し始め、タソスの命綱であった金鉱を明け渡すように圧力をかけてきたのでした。・・・・

サモス(20):ミュカレーの戦い

このにらみ合いの均衡をやぶったのはサモスでした。というのは、駐留するペルシア軍や新たに僭主になったテオメストルの目を盗んで、ランボン、アテナゴラス、ヘゲシストラトスの3名のサモス人がデーロス島ギリシア連合艦隊のところに向かったからです。彼らはギリシア連合艦隊の指揮官たちに、サモスに進攻するように懇願したのでした。なお、このギリシア連合艦隊の総指揮官はスパルタ王レオーテュキデースでした。

 スパルタ人レオテュキデスに率いられたギリシア水軍が、デロスに来航してここに停泊しているとき、サモスからトラシュクレスの子ランボン、アルケストラティデスの子アテナゴラス、アリスタゴラスの子ヘゲシストラトスの三人が使者としてギリシア軍を訪れた。この三人は、ペルシア軍およびペルシア方がサモスの独裁者として擁立したアンドロダマスの子テオメストルには内密にして、サモス人が派遣したものであった。彼らはギリシア軍の指揮官たちに面接すると、ヘゲシストラトスがさまざまなことを長々と述べたてた。すなわち、イオニア人たちはギリシア軍の姿を見ただけで、ペルシアから離反するであろうし、ペルシア軍はとうていこれに抵抗できぬであろう。かりに抵抗するとすれば、ギリシア軍にとってこれほどの好餌はまたと得られぬであろう。そしてヘゲシストラトスは彼らが共通に尊崇している神々の名を呼び、同じギリシア人である自分たちを隷属の状態から救い出し、ペルシア人を撃退してほしい、とギリシア軍の指揮官たちを促した。彼がいうには、ギリシア軍にとってそれはた易いことである。なぜならペルシア軍の艦船は性能が悪く、とうていギリシア軍の敵ではないから、というのであった。そして自分たちとしては、もしギリシア方を罠にかけるのではないかとの疑惑をもたれるならば、人質として船に載せられてゆく覚悟もできている、といった。
 サモスからきたこの男が必死に嘆願したところ、レオテュキデスは――相手の言葉によって先のことを占うつもりであったのか、あるいはたまたま神がそのように仕向けられたのか――
「サモスから来られたお人よ、そなたの名はなんといわれる」
と訊ねた。相手がヘゲシストラトスであると答えると、レオテュキデスは彼がさらに言葉を続けようとするのを遮っていうには、
「そなたの名をよい前兆として受け取ることにしよう。サモスのお人よ。そなたもそなたに同行の諸君も、サモス人は熱意をもってわれわれに協力し敵に当ると信義を誓った上、引き上げるようにしてもらいたい。」


ヘロドトス著「歴史」巻9, 90~91 から

スパルタ王レオーテュキデースが「そなたの名をよい前兆として受け取ることにしよう」と言ったのは、ヘゲシストラトスという名前が「軍を案内する者」という意味だったからでした。


こんなわけで、ギリシアの海軍はサモスに航行することにしました。

 さて生贄がギリシア軍に吉兆を現わすと、ギリシア水軍はデロスを発ってサモスへ向った。やがてサモス島内のカラモイという場所の近くに着くと、ここにあるヘラの神殿の前面に碇泊し、海戦の準備にかかった。しかしペルシア軍はギリシア軍が接近してくるのを知ると、彼らもまた先に引き上げさせたフェニキア軍以外の艦船を本土に向けて出航させた。ペルシア軍は評議の結果、とうていギリシア軍に敵せぬと判断し、海戦を避けるのが得策であると考えたからである。そして艦隊を本土へ向けて引き上げたのは、クセルクセスの命によって遠征軍の中から後に残ってイオニアの警備に当っていた味方の陸上部隊が、ミュカレに駐屯していたので、その援護下に入ろうとしたのである。(中略)


ヘロドトス著「歴史」巻9, 96 から

上の引用にある「ヘラの神殿」というのは、たぶんサモス人が最も神聖な場所と考えるヘーラー神殿のことでしょう。ギリシアの艦隊はこの神殿の前面に碇泊したのでした。

 ギリシア軍はペルシア艦隊が本土へ去ったことを知ると(中略)本土に進攻することに決した。(中略)敵の陣営に接近しても誰ひとり向ってくるものの姿が見えず、艦船は防壁の内に揚げられており、海岸一帯には陸上部隊の大軍が陣しているのを見ると、レオテュキデスはまずできるだけ海岸に接近して自分の船を進めながら、イオニア人に向い触れ役の声で次のような布告を呼ばわらせた。
イオニア人諸君、この声の聞えるものはみな、私のいうことを心に留めてくれ。これから私がそなたらに指示することは、ペルシア人どもには全く判らぬのであるからな。われわれが戦いを交えることになったならば、そなたらは何よりも第一に自由ということを念頭に置かねばならぬ。それについてはわれらの合言葉『ヘラ』を忘れずにおいてもらいたい。この私の言葉を聞かなかったものには、聞いたものから知らせてやってほしい。」
 このようなことをした意図は(中略)つまりこの言葉がペルシア軍に知られずに済めば、イオニア人を説得することになろうし、またペルシア軍に通報されれば、ペルシア軍がギリシア人部隊に不信感を抱くであろう、というのである。


ヘロドトス著「歴史」巻9, 98 から


このレオーテュキデースの策は、すぐに効果を表しました。それにしても合言葉が「ヘーラー」であるのは、やはりサモスの主神ヘーラー女神にあやかったのでしょうか?

ギリシア軍が戦闘の配置につくと、ペルシア軍はギリシア軍が戦いの準備に余念なく、イオニア人にも働きかけたのを目(ま)のあたり見て、まずサモス人がギリシア方に心を寄せているのではないかと疑い、彼らの武装を解除した。


ヘロドトス著「歴史」巻9, 99 から


どうも、ミュカレーの防衛のためにペルシアによってサモスから呼び寄せられたサモス兵がいたようです。彼らは、武器を取り上げられてしまったのですが、それでもギリシア方に味方したのでした。

 戦いに出たサモス兵たちは、ペルシア人内で武器をとり上げられていたが、戦闘が始まる早々から、形勢が容易に定まらぬのを見て、ギリシア軍を援助するために、力の及ぶ限りの努力を尽した。他のイオニア人部隊もサモス人の率先した行動を目にして、彼らもまたペルシア軍に叛いて異国軍を攻撃したのであった。



ヘロドトス著「歴史」巻9, 103 から


こうしてサモスを始め、他のイオーニア都市もペルシアに対して反乱し、今度はそれに成功したのでした。その結果、サモスを始めとするイオーニア諸都市はペルシアの支配を脱したのでした。


サモスの歴史はまだまだ続きますが、ペルシアの支配を脱したこの時点で、私のサモスについての話を終えようと思います。お読み下さりありがとうございます。

サモス(19):ペルシア戦争

イオーニアの反乱は鎮圧されましたが、この反乱にアテーナイと、エウボイア島のエレトリアは援軍を出していました。ペルシア王ダーレイオスは、そのことを口実に、アテーナイとエレトリアを征服するための軍を派遣することにしました。これが1回目のペルシア戦争です。

新たに任命された司令官とはメディア出身のダティスと自分の従兄弟に当るアルタプレネスの子アルタプレネスの両名であった。ダレイオスはこの二人に、アテナイエレトリアを隷属せしめ、奴隷とした者たちを自分の面前に曳き立ててくるようにとの命を下し出発せしめたのであった。


ヘロドトス著「歴史」巻6、94 から

司令官に任ぜられた右の二人は王に暇(いとま)を告げると、十分に装備を整えた陸上部隊の大軍を率いて進発し、キリキアのアレイオン平野に到着したが、ここで陣営を張って待機している間に、かねて諸民族に供出を命じてあった海上部隊がことごとく参集してきて陸軍に合流し、さらに前年ダレイオスが自国の朝貢国に調達方を手配しておいた馬匹輸送船も到着した。そこで馬はこの馬匹輸送船に載せ、また陸上部隊を艦船に乗船せしめて、六百隻の三段橈船をもってイオニアに向って出航した。
 しかしペルシア軍はここからヘレスポントスおよびトラキアを目指して大陸沿いに船を進めることはせず、サモス島を発してイカロス島を過ぎ、島嶼の間を縫って航行した。


ヘロドトス著「歴史」巻6、95 から

上の引用で「諸民族に供出を命じてあった海上部隊がことごとく参集してきて」とあるので、サモスも軍艦をキリキアのアレイオン平野の港に派遣したことでしょう。そしてペルシアの陸軍兵士を載せて他の船団と共にサモスに戻り、さらにエーゲ海を西に航海していったのだと思います。


このペルシア軍は、目標のひとつだったエウボイア島のエレトリアを征服し、そこの住民を捕獲しました。次にアテーナイを目指して、アテーナイ近郊のマラトーンに上陸したのですが、そこでアテーナイ軍に大敗したのでした。

ペルシア軍はアテーナイをあきらめて撤退することにしました。こうして1回目のペルシア戦争終結しました。


ダーレイオスは雪辱のため再度遠征軍の派遣を計画しましたが、その準備の途中で寿命を迎えてしまいました。息子のクセルクセースが即位し、父ダーレイオスの遺志を継いで、1回目のペルシア戦争の10年後に、より大規模な軍を編成し、王自らそれを率いてアテーナイに攻め込みました。ペルシアの陸上部隊海上部隊が北からアテーナイを目指して進軍する途中ではさまざまなドラマがあったのですが、ここでは省略します。ギリシアの連合軍がペルシア軍の南下を食い止めるのに失敗したあと、アテーナイが取った作戦は、アテーナイを放棄し全員を近くのサラミース島に避難させ、海戦に全てを賭ける、というものでした。

アテーナイはペルシア軍に占領されます。建物には火をつけられ、全土を破壊されます。ペルシア王クセルクセースは勝利を確信しました。彼はペルシアの艦隊をサラミース島とアテーナイの間の海に配置させ、ギリシア連合軍との海戦に挑みました。そして自分自身はサラミース島の対岸にあるアイガレオスという山の麓に玉座を据えて座り、この戦いを督戦することにしました。そして書記をそばに控えさせ、自軍の将兵の誰が手柄を立て、誰が卑怯な振舞いをしたのか、を記録するように命じたのでした。


後世サラミースの海戦と呼ばれることになるこの海戦で、サモスの艦隊はペルシア側で戦い、その戦いぶりでクセルクセース王の称賛を得たのでした。

 アテナイ軍の正面に布陣していたのは、エレウシス側の西翼を受け持つフェニキア部隊で、スパルタ軍に対したのはペイライエウス側の東翼に当るイオニア部隊であった。(中略)私はここにギリシア船を捕獲した三段橈船の艦長の名多数を列挙することができるが、いまはともにサモスの出身であったアンドロダマスの子テオメストルと、ヒスティアイオスの子ピュラコスの二人の名以外は挙げぬことにする。特にこの二人の名のみを挙げる理由は、テオメストルがこの功によりペルシア人に擁立されてサモスの独裁者となり、ピュラコスは王の恩人としてその名を記帳され莫大な領土を与えられたからである。


ヘロドトス著「歴史」巻8、85 から

上の引用で、テオメストルは奮戦の褒美としてサモスの僭主に擁立された、とあります。すると今まで僭主だったアイアケスはどうなっていたのでしょうか? この海戦以前にアイアケスは死去していたのか、あるいは何かの事情で失脚していたのか、それともこの時までサモスの僭主であったのが、ペルシアによってテオメストルに交代させられたのか、残念ながら分かりません。


さてサモスは奮戦したのですが、サラミースの戦いはペルシア側の大敗でした。ペルシア艦隊は、小アジアキューメーに撤退し、その後、サモスに集結しました。

一方クセルクセスの水軍の残存部隊は、サラミスから脱出してアジアに達し、王とその軍勢をケルソネソスからアビュドスに渡らせた後、キュメで冬を過した。春の萌しとともにサモスに集結したが、ここには艦隊の一部が冬営していた。(中略)何分はなはだしい打撃を蒙った後であるので、それ以上西へ向うことはせず、それを強制するものもないままサモスに居坐り、イオニア船を加えて合計三百隻の陣容をもって、イオニアが反乱を起さぬように警備していた。もちろんギリシア軍がイオニアに来るはずはないと思っており、彼らがサラミスから逃亡した際にもギリシア軍は追跡してこず、喜んで戦場から引き揚げていったことから判断して、自分たちは自国の警備に当っておれば十分であると考えていた。


ヘロドトス著「歴史」巻8、130 から

サモスはペルシアのエーゲ海における前線基地とされたわけです。


一方、ギリシア諸都市の連合海軍は最初はアイギーナ島に、次に東に進んでデーロス島に集結していましたが、彼らは残念ながらそこより東に進む勇気を持ち合わせていませんでした。

 全艦船がアイギナに到着した頃、イオニアからの使節の一行がギリシア陣営にきた。彼らは(中略)ギリシア人のイオニア出兵を懇願するために(中略)アイギナにきたわけである。しかし彼らはギリシア軍をデロスまで連れ出すのがやっとのことであった。それより先は地理に不馴れのため、ギリシア軍にとってはなにもかも恐ろしく、いたるところに敵兵が充満しているような気がしたのである。(中略)こうして符節を合せたように、ペルシア軍は恐れをなしてサモスより西方に船を進める勇気はなく、一方ギリシア軍もキオス人たちの懇請にもかかわらず、デロスより東方へは敢えて進もうとしなかった。要するに恐怖感が両軍の中間地帯の安全を確保したのである。


ヘロドトス著「歴史」巻8、132 から