神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

このブログの説明


このブログは、エーゲ海にあるさまざまな古代ギリシアの都市の創建から、ギリシアの古典期、あるいはローマ帝国の時代までの神話、伝説、逸話などを書いていったものです。それが60歳が近くなって見つけた私の趣味です(もう60は越えましたが)。記事を書く上での主な情報源はヘーロドトスの「歴史」トゥーキュディデースの「戦史」パウサニアースの「ギリシア案内記」、あと英語版のWikipediaなどです。



以下の都市について書きました(リンクを貼ってあります)。
アテーナイやスパルタのような名高い都市は、それらの歴史についてはネット上に多く見つかるので取り上げておりません。

記事を書き始めた日

クノッソス(27):最終回

ここから先については私の力不足のため、書くことが出来なくなりました。もっとちゃんとした終わり方にしたかったのですが・・・・。このブログでは古代都市を50個取り上げることにしていたので、この「クノッソス」で終わりです。


私はかなり若い頃から日本の神話にもギリシアの神話にも興味を持ってきました。日本の神話が天皇家を軸にしていることから歴史に自然に接続されていくのに対して、(日本で紹介されている)ギリシア神話ではトロイア戦争の次の世代あたりで物語が途切れてしまうのを、昔から残念に思っていました。同時に、古典期(BC 479年~BC 338年)のギリシア人たちが自分たちの神話の時代と自分たちの生きていた時代をどのように関係づけていたのか知りたいとも思ってきました。


その後いろいろ調べていくと、哲学者プラトーンがアテーナイ王コドロスの子孫であると伝えられており、コドロスはさらにさかのぼれば、神話に登場するネーレウスに行き当たる、ということや、プラトーンの弟子だったアリストテレースは、医神アスクレーピオスの子孫とされていたこと、あるいはスパルタの王家は英雄ヘーラクレースの子孫とされていたことなどを知り、けっして神話と当時の時代とが断絶していたわけではないことを知りました。同じような例として、アテーナイの貴族アルクマイオニダイもピュロス王ネーレウスの子孫であり、同じくアテーナイの貴族ピライオイはサラミース島の英雄アイアースの子孫である、と伝えられています。


古典期のギリシア人たちが神話に登場する英雄たちを自分たちの祖先と考えていたのであれば、神話から歴史に至る物語があるはずだ、と考えました。そして、そのような物語を読みたい、というのがいつしか私の願いになりました。しかし、そのような本を見つけることは出来ておりません。


このブログは、私のこのような願いを何とかなだめるために書いたものです。町というものを軸にして、神話から歴史への橋を架けようとしたのでした。しかし、歴史学で「BC 1200年のカタストロフ」とか「暗黒時代」とか呼ばれている事態の壁は厚く、なかなかうまく橋をかけることが出来ませんでした。

前1200年のカタストロフとは、地中海東部を席巻した大規模な社会変動のこと。この社会変動の後、当時、ヒッタイトのみが所有していた鉄器の生産技術が地中海東部の各地や西アジアに広がることにより青銅器時代は終焉を迎え鉄器時代が始まった。

そしてその原因は諸説あるが、この社会変動の発生により、分裂と経済衰退が東地中海を襲い、各地において新たな時代を生み出した。


日本語版ウィキペディアの「前1200年のカタストロフ」の項より

暗黒時代とは、古代ギリシアにおける紀元前1200年から紀元前700年頃までの間における文字資料に乏しい時代のこと。ミケーネ文化、前古典期(アーカイック期)の間にあたる。また、この時代のうち前1059年から前700年頃は土器に幾何学文様の描かれたことから幾何学文様期と呼ばれることがある。

また、暗黒時代と呼ぶことが不適切として初期鉄器時代と呼ばれることが普及しつつある。



古代ギリシャでミケーネ文化が繁栄していた時代、「前1200年のカタストロフ(前1200年の破局とも)」をきっかけに文化は崩壊、それまで使用されていた線文字Bも使用されなくなり文字資料が乏しくなった。この状況はギリシャ人とフェニキア人が接触することによりアルファベットが成立してエーゲ海地帯に普及するまで続く。


このカタストロフの内容については各種異論が存在し、このカタストロフが古代ギリシャ史における分水嶺とされ、カタストロフ以前を研究する学者は考古学者、カタストロフ以後を研究する学者は歴史学者と分け隔てられていた。そのため、暗黒時代は考古学者、歴史学者の両者から敬遠される時代であった。


その後、考古学的調査の進展によりそれまで収集されたデータの分析が行なわれ、暗黒時代という分水嶺を打破しようとする学者らが現れはじめ、それまでの暗黒時代の印象が大きく変化していった。


日本語版ウィキペディアの「暗黒時代 (古代ギリシア)」の項より


取り上げた都市は、エーゲ海に面したもの、エーゲ海の海岸に位置していなくてもなるべくその近くに位置したものに限定しました。それはひとつにはやはりエーゲ海という言葉に対する漠とした憧れがありましたし、「暗黒時代」になされたらしいギリシア人の植民活動の活発さに強く印象付けられたことも理由のひとつです。ギリシアにおける植民活動の大部分は航海によってなされました。そのため、エーゲ海というものをこのブログの背景にしようと思ったのです。


このブログの元になる文章を最初に書いたのは2017年7月31日のことで、その時はこんなに続けるつもりはなく、冒頭の文章も

何の説明もつけずに始めてしまい、読む人には申し訳ないのですが・・・・。そのうちに何か筋書きのはっきりした記事になるかもしれないと思い、書き始めます。
ヘロドトスの「歴史」や他の文献から、イオニアの華と呼ばれた古代ギリシアの都市であるミレトスの記事を年代ごとにたどっていけたら、と思っています。


エーゲ海のある都市の物語:ミレトス(1):ミレトス建設 より

という、自信のないものでした。今のブログではこのあたりの文章を書き直しています。


このミーレートスについての話を書き始めたら、ヘーロドトスの「歴史」

にネタがいっぱいあって、それらは以前から頭の中にあったので、どんどん書けてしまったのでした。それを書き終えてしばらくしたら、私の心の中に「今度はミュティレーネーについて書け」というささやき声が聞こえて、そんなに書けるかなあ、と思っていたのですが、英語版のWikipediaを調べると、ネタが豊富にあったので、これもまた楽しく書けたのでした。これに味をしめて、以後50都市になるまで書き続けてきて、気づいたら6年以上経っていました。この活動の過程でいろいろなことを知ることが出来たので、よい勉強になったと思います。まあ、実生活の役には立たないでしょうが、少なくとも自分の生活に彩りを与えてくれたと思います。今後は、今までの記事を読み直して、手を入れていくことになるでしょう。


読んで頂いた方々に感謝いたします。

クノッソス(26):BC 1200年の謎

BC 1200年からあとの数百年のクノッソスの様子はやはり分かりません。この頃になるとギリシア本土でも次々と宮殿が破壊され、ミュケーナイ文明は滅亡してしまいました。この滅亡の原因はいまだに明らかになっていません。かつては北からドーリス人が侵入してきたことが原因とされていましたが、現代ではその説に反対する説も有力になっています。かといってどれかの説が定説になったわけでもありません。

古代ギリシアの伝説で知られるように、ミュケーナイ・ギリシアの終焉をもたらしたドーリス人の侵入という仮説は、新しい埋葬方式、特にシスト墓や、新しいギリシア語の方言、つまりドーリス方言の使用などの散発的な考古学的証拠によって裏付けられています。ドーリス人は何年にもわたって徐々に南下し、領土を荒廃させ、最終的にミュケーナイ文明の諸々の中心地に定着したようです。


英語版Wikipediaの「ミュケーナイ文明」の項より


一方、エジプト人が「海の民」と呼んだ諸民族の集団が、ミュケーナイ文明のギリシアを襲ったためにミュケーナイ文明は滅亡した、という説もあります。

一方、ミュケーナイ・ギリシアの崩壊は、東地中海における海の民の活動と時を同じくしています。彼らはアナトリアとレバントに広範な破壊を引き起こし、最終的にはBC 1175年頃にファラオのラムセス3世によって打ち負かされました。これらの人々を構成する民族の1つはエクウェシュであり、この名前はヒッタイトの碑文のアヒヤワと関連していると思われます。


同上

この説明の最後のところには補足説明が要りそうです。ヒッタイトの碑文に登場するアヒヤワは、ギリシア人の一派であるアカイア人のことを指しているという説が有力です。ホメーロスは神話の英雄たちのことをアカイア人またはダナオイ人と呼んでいます。上の説明は、海の民の構成民族の一つとしたエクウェシュを、アカイア人に同定しようとするものです。しかし、私にはこの説明は混乱を引き起こすように思えます。ミュケーナイ文明のギリシア人たちがアカイア人と自称していたのは私には確からしく思えます。なのにミュケエーナイ文明を滅ぼした人々もアカイア人と呼ばれていたのでしょうか? 私には事態がよく理解できません。もし、攻撃するほうもされるほうも同じアカイア人だったとすると、あるいは、次の内輪もめ説に近い事態だったのかもしれません。

(上:海の民を迎え撃つエジプト王ラムセス3世

別のシナリオでは、ミュケーナイ・ギリシアの崩壊は内部の混乱の結果であり、それは厳格な階層社会システムとワナックス(=王)のイデオロギーの結果としてミュケーナイ諸国間の内輪もめや多くの国での内乱を引き起こした、と提案されました。一般に、BC 12 世紀から 11 世紀のギリシアの考古学的状況が不明瞭であるため、ミュケーナイの宮殿国家を引き継いだ貧しい社会集団が新参者だったのか、それともすでにミュケーナイ・ギリシアに住んでいた集団なのかについて、学者の間で論争が続いています。最近の考古学的発見は後者のシナリオを支持する傾向があります。


同上

上の引用の最後の部分は、プラトーンが「法律」で以下のように書いていた(「(20):プラトーンが再構成した先史時代(4): 再びドーリス人について」参照)のを思い起こさせるような説です。

ところで、そのイリオン(=トロイア)の包囲されていた期間が10年ともなると、その間に、包囲していた者それぞれの母国では、若者たちの内紛のために、多くの不幸がもち上がっていました。というのも若者たちは、兵士たちが自分の国や家に帰還したとき、立派なふさわしい仕かたで彼らを受けいれず、むしろその結果、おびただしい死刑や虐殺や追放が生じてくるありさまでした。その追放された者たちは、その後、名前をかえて再び戻ってきましたが、彼らは、アカイア人と呼ばれるかわりに、ドリア人(=ドーリス人)と呼ばれました。その理由は、追放されたその者たちを糾合したのが、ドリエウスという人だったからです。


プラトーン「法律」第3巻第4章 森進一・池田美恵・加来彰俊訳 より

プラトーンは、内乱の結果、アカイア人の一部がドーリス人になったのだ、と書いています。では、海の民はミュケーナイ文明滅亡には関係なかったのでしょうか? 私は海の民も関係しているような気がします。私は、内乱で国を追い出された人々が海の民に合流したということを想像しています。そして彼らの拠点がクレータ島ではなかったのか、とも・・・・。

クノッソス(25):ペリシテ人

ギリシア本土では、BC 1200年頃から考古学的な遺物が少ない暗黒時代に入ります。しかし、クノッソスのあるクレータ島ではそれより150年も早いBC 1350年頃に暗黒時代に入ってしまうのでした。この間いったい何が起きたのか、皆目わかりません。そこでいろいろ調べていくうちに、聖書に関係する記事にクレータ島の様子の片鱗を見たような気がしました。


聖書には古代イスラエル人に敵対する民族としてペリシテ人と言う民族が登場します。この民族がどうもクレータ島からパレスチナガザ地区にBC 1200年頃に移住してきたらしいとされています。

ペリシテ人は紀元前13世紀から紀元前12世紀にかけて地中海東部地域に来襲した「海の民」と呼ばれる諸集団を構成した人々の一部であり、エーゲ海域とギリシャのミケーネ(=ミュケーナイ)文明を担った人々に起源を持つと考えられている。
(中略)
聖書の記述では、彼らのルーツはハムの子ミツライムの子であるカフトルの子孫であるとされ、「カフトル島から来たカフトル人」と呼ばれている(『創世記』10:13-14、『申命記』2:23)。さらにこれを裏付ける記述は、『エレミヤ書』47章4節にも存在する。したがって、ハムの子カナンを始祖とするカナン人とは異なる氏族であったとされる。


カフトルが実際にどの地域を指しているのかについても諸説あるが、紀元前12世紀頃までに、すでに鉄の精製技術を有していたことなどから、クレタ島キプロス島、あるいはアナトリア地方の小島の1つであった、などの候補が挙げられている。今日ではクレタ島であるとの見解が示されることが多い。


日本語版ウィキペディアの「ペリシテ人」の項より

この引用にあるようにペリシテ人は「カフトル島から来たカフトル人」と呼ばれており、このカフトル島というのがクレータ島を指すとする推定が有力だということです。


もしカフトル島がクレータ島のことであるとすれば、そしてそこから来た人々がミュケーナイ文明を担っていたとすれば、BC 1200年頃のクレータ島にはまだミュケーナイ文明のギリシア人が住んでいた、ということになります。ということは、BC 1350年頃にクノッソス宮殿が破壊され、クレータ全土を支配する強力な権力が崩壊したあと、クレータ島には同じミュケーナイ文明のギリシア人が住み続けたものの多数の地方政権が分立するようになったのでしょう。そして彼らはたぶん好戦的で互いに戦い合っていたが、時には連合して海を渡り、パレスチナに移住することもあったのでしょう。なお、パレスチナという地名はペリシテ人の名に由来しています。


本当にペリシテ人はミュケーナイ文明の担い手だったのでしょうか? 英語版Wikipediaの「ペリシテ人」の項にはそれを支持する証拠を列挙しています。

特に注目に値するのは、初期のペリシテの陶器で、これはエーゲ海ミュケーナイの後期ヘラディック IIIC期の陶器の現地製作版であり、茶色と黒の色合いで装飾されています。これは後に鉄器時代I期の特徴的なペリシテ陶器に発展し、ペリシテ二クロム陶器として知られる白いスリップに黒と赤の装飾を施したものとなりました。また、特に興味深いのは、エクロンで発見された、240m2にわたる大きくて、構成の優れた建物です。その壁は広く、2 階を支えるように設計されており、広くて精巧な入り口は、列の柱で支えられた屋根で部分的に覆われた大きなホールにつながっています。ホールの床には、ミュケーナイのメガロン・ ホール建築によく見られる、小石を敷き詰めた円形の炉があります。(中略)他の発見の中には、発酵ワインが生産されていたワイナリーや、ギリシアのミュケーナイ遺跡のものと類似した織機の重りも含まれています。


英語版Wikipediaの「ペリシテ人」の項より

ただし、ペリシテ人の起源がミュケーナイ文明のギリシア人であるという説には少数ながら反対もあるそうです。次にカフトル島についてですが、これについてはそれ以前の時代のエジプトの貴族の墓の壁画に登場する民族の名前ケフティウが関連付けられています。ただ、これにも異論もあります。壁画に書かれたケフティウの人々が捧げ持つ壺の特徴がミノア文明の壺の特徴を示しているため、ケフティウ人はミノア人のことであると推定されています。そこで聖書に登場するカフトルを古代エジプト語の民族名ケフティウを同一視して、カフトル島をクレータ島と推定する説が有力です。


さて、BC 1200年頃のクレータ島にミュケーナイ文明のギリシア人がいたならば、彼らがトロイア戦争に参加していたのかもしれません。そうだとすると、ホメーロスが伝える、クレータ王イードメネウスの伝説も、少しは現実を反映しているのかもしれません。

クノッソス(24):歴史と伝説の狭間

 

BC 1450年頃にミノア文明の繁栄は終わりました。この頃、クレータ島の各地の宮殿が破壊され、クノッソス宮殿だけが残りました。この時に本土からミュケーナイ文明のギリシア人が攻めてきてクレータ島を占領した、と推定されていますが、詳しい経緯は分かっていません。


では、ギリシアに伝わる神話・伝説からこの事件について何かの示唆が得られるでしょうか。ここで注意すべきことは、ミュケーナイ文明のギリシア人といっても彼らがミュケーナイから来たとは限らない、ということです。というのは、この文明は、有名な遺跡がミュケーナイから発掘されたためにミュケーナイ文明と名付けられたのであって、ギリシア本土の多くの土地がミュケーナイ文明に属していたからです。

(上:ミューケーナイ文明の時代のギリシア語を話す人々の諸王国)


そう考えるとき、アテーナイの英雄がミーノータウロスを退治した伝説が、このBC 1450年頃の事件をうっすらと反映したものかもしれない、と思えてきます。当時のアテーナイもミュケーナイ文明に属していました。しかし、この伝説にはアテーナイからクノッソスに人々が移住したという話が欠けており、この点で考古学の推定する経緯と異なっています。


一方、ギリシア本土からクレータ島にギリシア人が移住したという伝説は「(9):民族の変遷」で紹介したようにヘーロドトスが伝えています。その伝説によれば、シケリア島の町カミーコスで横死したミーノース王の復讐のためにクレータの人々はカミーコスを包囲したが落とすことが出来なかった。そしてあきらめて帰国する際に途中で難破してイタリア半島の南端に打ち上げられ、彼らはそこに住みついてしまった。このためにクレータ島は無人になったのでギリシア人が移住した、というものです。この伝説によれば、クノッソスは征服されたのではなく、無人になってしまったところに(おそらくミュケーナイ文明の)ギリシア人を平和的に受け入れたことになります。しかしこれはBC 1450年頃クレータ島の各地の宮殿が破壊された、という考古学上の事実と合致しません。ということで、信憑性のある伝説はどうもなさそうです。


さて、ミュケーナイ文明のギリシア人支配者たちはクノッソス宮殿を自分たちの好みに改装して使用していました。しかし、約100年後のBC 1350年にはクノッソス宮殿も破壊され、二度と再建されることはありませんでした。この時も何が起きたのか、やはり不明です。

クレータはしばらくの間、強力な中央集権の下にあったが、これとても長くは続かなかった。というのも、クノーソスの崩壊は単に遅れただけで、回避されたわけではなかったからである。その時期については諸説あるが、おそらくは紀元前14世紀の前半に、またもや原因不明の大火に見舞われて、クノーソスの巨大な王宮は焼け落ち、二度と再び権力の中心地となることはなかった。むろんこのことは、これ以後クノーソスに王が存在しなかったということを意味するものではない。しかしたとえ王がいたとしても、まだ発見されていないどこか別の場所に新しい王宮を建設したものと考えられる。しかしそれは単に弱小国の君主にすぎず、おそらく威令をクレータ島内の他の支配者たちに及ぼすことはできなかったであろう。


チャドウィック著「ミュケーナイ世界」より

クノーソス出土の線文字Bが書かれた粘土板は、この時の大火によって焼き固められた結果、現代まで残ることが出来たと考えられています。線文字Bは解読されていて、古代ギリシア語で書かれていることが分かっていますが、線文字B粘土板を調べても、クノッソス宮殿の倒壊の原因は分かりません。

文書から明確にうかがえることは、全く正常に一年の半ばが過ぎようとしていたある時期にクノーソスは突如打撃を蒙ったということである。羊の刈り込みは済み、刈り込まれた羊毛は、布に織るために女たちの集団に支給されているし、また、少なくとも一部の地域では、刈り入れされた穀物の集荷も終っていたであろう。


同上


さらに私にとって驚くべきことがありました。それは、クノッソス宮殿崩壊の年代(BC 1350年頃)が、トロイア戦争があったとされるBC 1200年頃より以前だったということです。もしそうだとすると、ホメーロスが「イーリアス」で歌ったように、クレータの王イードメネウスがトロイア戦争に参加して活躍した、という話は全て空想の産物ということになってしまいます。これは、伝説を安易に信じてはいけない、ということを意味するのでしょうか? 

クノッソス(23):ミノアの女神たち

クノッソスを始めとするミノア文明の遺跡では、宗教に関する遺物が多く発掘されているのですが、線文字Aが解読されていないために、神名を始めさまざまなことが不明のままです。それでもミノアの宗教では女神たちが重要な位置を占めていたことが推測されています。のちのギリシア神話の中にも、クレータから来た女神や、神的な女性の話が散見されます。その一例がブリトマルティスという女神です。

ブリトマルティス
クレータの女神。ソーリーヌスによれば、この名はクレータ語で「甘美な乙女」の意。ゼウスとカルメーの娘のニンフ。ミーノースが彼女を愛して、九カ月間そのあとを追ったが、ついに彼女は断崖より身を投げ、漁夫の網(ディクテュオン)にかかって、救われた。これは女神の称呼ディクテュンナの説明神話である。一説には彼女が狩猟の網の発明者であるため、また彼女が狩のあいだに網にかかり、アルテミスに助けられたためであるとする。のち、彼女はアイギーナ島に遁れ、アルテミスの保護をうけ、同地でアパイアーなる名のもとで崇拝された。ときにアルテミスと同一視されている。


高津春繁著「ギリシアローマ神話辞典」の「ブリトマルティス」の項より

ソーリーヌスというのはAD 3世紀初めに活躍したラテン語の文法学者、地理学者、編纂者だということです。その彼によればブリトマルティスとは「甘美な乙女」という意味だそうですが、これは反語的な名前で本来はゴルゴーンのような恐るべき女神だそうです。


(左:ゴルゴーン)


この女神はクレータ島からアイギーナ島へやってきたのですが、ほかにもクレータからやってきた女神たちとしてダミアーとアウクセーシアーがいます。

ダミアーとアウクセーシアー(トロイゼーン人も彼女たちの崇拝を分かち合う)については、彼ら(=トロイゼーン人)はエピダウロス人やアイギーナ人と同じ説明をせず、彼女たちがクレータ島から来た娘たちであったと言います。市内で暴動が起こり、この乙女たちも対立する派によって石打ちによって殺されたと彼らは言います。そして彼らは石投げと呼ぶ彼女たちに捧げる祭を開催します。


パウサニアース「ギリシア案内記」2.32.2より

上の記事では、ダミアーとアウクセーシアーは普通の人間の娘のように書かれていますが、ヘーロドトスは彼女たちをはっきり女神たちと書いていました。

エピダウロス穀物の不作に悩んでいたことがあった。そこでエピダウロス人は、この天災についてデルポイの神託を伺ったのである。巫女はダミア、アウクセシア二女神の神像を奉安せよと告げ、そうすれば事態は好転しようといった。そこでエピダウロス人が、神像は青銅製にすべきか、それとも石材を用いるべきかと訊ねたところ、巫女はそのどちらも宜しからず、栽培したオリーヴの材を用いよと告げた。


ヘロドトス著「歴史」巻5、82 松平千秋訳 から


さらには、これらの女神たちよりはるかに有力な女神であるデーメーテール(大地と穀物の女神)が人間の老婆に化けて、偽りの身の上話をする際に、自分はクレータからやってきたと話をしています。これは、本当にデーメーテールが(あるいはデーメーテールの前身となったクレータの女神が)クレータから伝来したことを反映しているのかもしれません。

すると母神(=デーメーテール)は言葉を返した。
「女の族(うから)の中の誰かは知らぬが、娘たちよ、ごきげんよう。あなたがたにはお話ししましょう。お尋ねになったうえは、本当のことを話すのが良いでしょう。
 私の名はドーソー――それが母のつけてくれた名前です。それがこうしてクレタから、海の広い背を渡りやってきたのは、みずから望んだことではありません。嫌がる私を力ずくでむりやり、海賊たちがさらったからです。やがて彼らが脚速い船をトリコスに着けると、女たちも海賊たちとともどもみな陸に上がり、船のともづなの脇で食事の支度を始めました。
 しかし私は心弾む夕餉に惹かれることもなく、こっそり抜け出すと、黒い大地を渡り、いたけだかな主人たちが只で手に入れたこの私を売りとばして、金を手にすることなどできないよう、逃げてきたのです。


岩波文庫「四つのギリシア神話―「ホメーロス讃歌」より―」の「デーメーテールへの讃歌」逸見喜一郎訳 より


(上:クノッソスで出土した女神と、女神を崇拝する女性たちを描いたと思われる黄金の印章)