神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書いていきます。

このブログの説明


このブログは、エーゲ海にあるさまざまな古代ギリシアの都市の創建から、ギリシアの古典期、あるいはローマ帝国の時代までの神話、伝説、逸話などを書いていくものです。それが60歳が近くなって見つけた私の趣味です。記事を書く上での主な情報源はヘーロドトスの「歴史」トゥーキュディデースの「戦史」、あと英語版のWikipediaなどです。


今まで、以下の都市について書きました(リンクを貼ってあります)。

アテーナイやスパルタのような名高い都市は取り上げない方針です。それらの歴史についてはネット上に多く見つかるためです。


今はヘルミオネーについて書いています。

ヘルミオネー(1):2つのヘルミオネー


ヘルミオネーは、エーゲ海の西側、スパルタの東にあります。 


私はずっとヘルミオネーという町の名前は、ギリシア神話に登場するヘルミオネーという女性に由来するのだろう、と思っていました。ヘルミオネーは、トロイア戦争の原因となった絶世の美女ヘレネーの一人娘です。しかし、今回調べてみたところヘルミオネーという町とヘルミオネーという伝説上の女性の間に関係は見つかりませんでした。


町の方のヘルミオネーも女性のヘルミオネーもすでにホメーロスに登場するので、古い伝統があることが分かります。まず、町のヘルミオネーのほうは、ホメーロスの「イーリアス」の第2書の「船揃え」のところに登場します。

 またアルゴスや、城壁に名を得たティーリンスを保つ者ども、
さてはヘルミオネー、またアシネーの深い入江を抱く邑々、
トロイゼーンからエーイオナイ、また葡萄のしげるエピダウロス
またアイギナやマセースを受領する、アカイアの若殿ばら、
この者どもを率いるのは、雄たけびも勇ましいディオメーデー


ホメーロス 「イーリアス 第2書」 呉茂一訳 より


一方、女性のヘルミオネーのほうは「オデュッセイアー」に登場します。

 さて一行は、うつろに窪み谿あいをなすラケダイモーンに到着して、
誉れも高いメネラーオスの館にむかって車をすすめ、ゆくほどもなく、
主人(あるじ)の殿が、大勢の身内の者らと婚礼の宴を開いているのに
出逢った、子息のと、非の打ち処もない姫のとを、屋敷うちで。
その姫は、武士(もののふ)をたおすアキレウスの、息子のもとへ嫁がせるので、
それも始めにトロイアの地で、嫁入らせようと約束して
十分承知もしていたもの、その婚儀を神々が実現させるところであった、
その姫をいまこのおりに、馬や車を伴なわせ、先方へ遣(おく)ろうという、
アキレウス支配下にあるミュルミドーンらの、世に名も高い都に向けて。
また子息のほうにはスパルテーから、アレクトールの娘を嫁に
もらおうとしたが、この息子は晩く生まれたメガペンテースとて、屈強ながら
脇腹だった、ヘレネーにはもう神さまが子種をお授けなされないので。
それも最初に、いつくしい姫ヘルミオネーを設けて以来のこと。
さりながら(この姫は)容姿も黄金のアプロディーテーそっくりだった。


ホメーロス 「オデュッセイアー 第4書」 呉茂一訳 より

ホメーロス オデュッセイアー〈上〉

ホメーロス オデュッセイアー〈上〉

上の場面は、スパルタの王メネラーオスとその妃ヘレネーは自分のひとり娘ヘルミオネーを遠方の国プティエーの国王ネオプトレモスに嫁がせるために、送り出す宴を開いているところです。ネオプトレモスは有名な英雄アキレウスの息子です。同時にメネラーオスと側室との間の息子であるメガペンテースの婚姻も祝っている、というので話は少し、こんがらがっています。ここに系譜を出して、理解の助けにします。


ギリシア神話の年代観では「イーリアス」はトロイア戦争の最後の年の物語であり、「オデュッセイアー」はそれから10年後なので、女性のヘルミオネーが生まれた時にはすでに町のヘルミオネーは存在していたようです。すると女性のヘルミオネーは、この町にちなんで名づけられたのでしょうか?

ヘルミオネー:目次

1:2つのヘルミオネー

私はずっとヘルミオネーという町の名前は、ギリシア神話に登場するヘルミオネーという女性に由来するのだろう、と思っていました。ヘルミオネーは、トロイア戦争の原因となった絶世の美女ヘレネーの一人娘です。しかし、今回調べてみたところヘルミオネーという町とヘルミオネーという伝説上の女性の間に関係は見つかりませんでした。・・・・

スミュルナ(9):女神ローマの発明

スミュルナには、アレクサンドロス大王の指示によって建設された新スミュルナと、それまでの旧スミュルナの2つの町があったのでした。旧スミュルナについては代表的な人物として詩人のミムネルモスをご紹介しました。そこで新スミュルナについても何か代表になりそうな人物を探したのですが、私の探し方が悪いのか、適当な人物が見つかりませんでした。そこで、今回は新スミュルナが女神ローマなるものを新たに発明したという話をご紹介します。




(女神ローマ)


BC 197年、かろうじて独立を保っていたスミュルナは、今まで同盟関係にあったペルガモン王国との関係を断ち、当時は共和国だったローマに助けを求めました。なぜ助けを求めたかと言えば、東方の大国セレウコス朝シリアのアンティオコス3世がギリシア世界に支配力を強めようとしていたからです。スミュルナはペルガモンの力ではセレウコス朝シリアの進出を防ぐのに不足であると考え、この年にマケドニアに勝利したローマに期待を掛けたわけでした。


このあたりの歴史は各国の目まぐるしく勢力関係が変わるので私はよく理解できていません。それでも、何とかご紹介したいと思います。


第2次ポエニ戦争カルタゴに勝ったローマにギリシアのいくつかの都市国家の代表がやってきて、彼らの北に位置するマケドニア王国の侵略から自分たちを守って欲しい、と要請しました。そこでローマはBC 197年にキュノスケファライの戦いマケドニアと戦ってこれに勝ち、マケドニアの侵略を止めさせました。ところが、マケドニアの力を温存させたローマの戦後処理にギリシア都市国家群は不満を持ち、今度はシリアのアンティオコス3世を頼ります。そしてアンティオコス3世にギリシア本土に進駐するように要請したのでした。この頃のギリシアは勢力が弱くなり、周りの大国の力を借りて自分たちの意図を実現するしかなかったのでした。


これをマケドニアを叩くよい口実と見たアンティオコス3世は軍を小アジアまで進め、ギリシア本土進攻をうかがう態勢に入りました。スミュルナはそれに危機感を持ったのでローマに同盟を持ち掛けたのでした。この同盟のおかげでアンティオコス3世はスミュルナに手出しが出来なかったようです。そこでこの同盟を記念してBC 195年にスミュルナ政府は女神ローマなるものを発明して、それを礼拝するようになったのです。古代ギリシア人はオリュンポスの12神を始めとする多数の神々を崇拝する多神教だったので神が1名増えることは、どうってことはないのでした。しかし、スミュルナは当時ローマ支配下ではなかったのに、ローマという町を神として崇める、という発想を持ったのにはちょっと驚きます。この時まで当のローマ人にもそんな発想はなかったのです。


ところで、ローマは神話に関しては全面的にギリシアの神話を取り入れていました。そしてギリシア神話に登場する神々を自分たちの崇拝する神々に置き換えて理解したのです。たとえばゼウスはユーピテルに、ヘーラーはユーノーに、ポセイドーンはネプトゥーヌスに、といった具合にです。そんなローマ人ですから、ギリシア人が、女神ローマを崇拝し始めた、と聞けば、すぐにそれを取り入れてしまうのでした。もし、都市ローマを神格化するのではなくて、ローマの当時の将軍の誰かあるいは政治家の誰かを神格化していたら、当時共和制だったローマ政府は拒否反応を示したことでしょう。当時のローマの支配階級は集団指導制を良しとし、誰かに権力が集中することを非常に警戒しておりました。そんな時に外国のこととはいえ、ローマ人の誰か個人を神格化している、という情報が入ったら、それを止めようとしたと思うのです。しかしそうではなくてスミュルナはローマという町自体を神格化したので、ローマ人の拒絶にも合わずに済んだのでした。


その後、スミュルナはペルガモン王国の支配下に入りますが、BC 133年、ペルガモン王アッタロス3世が後継者なしで死亡する際に、自分の王国全体をローマに寄贈すると宣言しました。そのため、王国はローマの属州となり、アジア属州と名付けられました。スミュルナはローマの支配下に入り、属州の主要な港として栄えたのでした。


一方、女神ローマの方はといえば、ローマの支配領域にその崇拝が広まり、紀元2世紀頃には人々に普通に知られた女神になっていました。そしていつのまにか女神ローマのいわれが出来ていました。紀元1~2世紀の文筆家プルータルコスは、以下のように書いています。ここでは女神ローマは、ギリシア風にローメーと呼ばれています。

ある人はトロイアが落ちた時逃げのびたいく人かの者がうまく船を手に入れたが、風に運ばれてテュレーニアー(イタリア)に到着し、テュンブリ川(ティベル川)の岸に錨を下したところ、その中の女たちがすでに当惑してつくづく海がいやになっているのを見て、ローメーという名の、身分も高く知恵もすぐれていた一人が、船を焼いてしまおうと持ち掛けた。それを実行したために初めは男たちも怒ったが、結局しかたなくてパランティオン(ローマの丘のひとつ)のあたりに住居を定めるうちに、土地が豊かなこともわかったし、近くの住民たちも快く迎えてくれて、しばらくの間に予想以上の成功を収めたので、ローメーにいろいろ敬意を表したが、とりわけ町にその名をつけてこの人が元であることを明らかにしたのだと言っている、


プルターク英雄伝(一)」の「ロームルス」から 河野与一訳。かな遣いや漢字を現代風に書き換えました。


このように女神ローマへの礼拝が流行した成り行きを見ていくと、BC 197年当時のスミュルナ政府はなかなかのマーケティング上手ではなかったか、と思えてきます。


スミュルナがローマ帝国内の重要な港湾都市として栄えたところで、このスミュルナの話を終えたいと思います。読んで下さり、ありがとうございます。

スミュルナ(8):ミムネルモス(2)

ネムルモスより約300年後の、エジプトのアレクサンドリアに集まったギリシア人の学者たちは、往古の詩人たちの詩集を編纂したのですが、ミネムルモスの分は2冊の本にしかなりませんでした。ステーシコロスという詩人の分は26冊もあったということです。ここから推測するに、ミネムルモスは寡作の詩人だったようです。この2冊の本のうちの1冊が「ナンノ」という名前を付けられました。これは彼がエレゲイア詩を歌う際に笛を吹いて伴奏した女性の名前であったと伝承は述べています。エレゲイア詩は通常、笛の伴奏つきで歌われていたのでした。本当かどうか分かりませんが、ナンノがミムネルモスの恋人だったという人もいます。もう1冊のほうは「スミュルネイス」と名付けられました。これは「スミュルナの歌」という意味でした。この本にはスミュルナの歴史に関する叙事詩が収録されていたようです。


ネムルモスの詩は酒宴の席で人気があったというのですが、たとえば次に紹介する断片は、どんな感じで歌われていたのでしょうか?

Would that the fate of Death might overtake me without disease or woeful trouble at threescore years!


60歳で死の運命に会いたいもの、病気や悲惨な悩みとは無縁のまま! 

こんな断片も残されています。

Enjoy yourself. Some of the harsh citizens will speak ill of you, some better.


楽しもう。辛辣な市民のうち何人かはあなたの悪口を言うだろうが、良いことをいう人もいよう。


やがてスミュルナの陥落の日が近づいてきます。リュディアの圧力が高まる中で、ミムネルモスは上に挙げたような詩とは趣を変えて、昔(それは彼が生まれる前のことでしたが)リュディア王ギュゲースの軍を破ったヘルモス川のほとりの輝かしい勝利を歌います。下に引用する断片は、過去の勝利の時の勇敢なスミュルナの戦士たちを称えるとともに、現在の市民に対して奮起を促しているようです。

Not his were such feeble might and poor nobility of heart, say my elders who saw him rout the serried ranks of Lydian cavalry in the plain of Hermus, rout them with a spear; never at all would Pallas Athene have had cause to blame the sour might of the heart of such as him, when he sped forward in the van, defying the foeman's bitter missiles in the thick of bloody war. For no man ever wrought better the work of the fierce battle in face of his enemies, when he went like a ray of the Sun.


彼はそのように弱々しくなく、心の高貴さに不足はなかった。彼がヘルモスの平野でリュディアの騎兵の密集した隊列を敗走させ、彼らを槍で敗送させたのを見た私の年長者たちは言う。彼が先陣で前進し、血なまぐさい戦争の中で、敵の苦い飛び道具に挑んだとき、パラス・アテーナーが彼のような心の苛烈な力を咎めることは決してなかっただろう。彼が太陽の光線のように進んだとき、敵に直面して激しい戦いのわざをこれほどうまく行った人はいなかったので。

パラス・アテーナーは女神アテーナーのことです。アテーナーは戦いの女神でもありました。そのアテーナーが「彼」の勇猛な心を咎めるようなことはなかっただろう、と詩人は歌っています。




(女神アテーナー


スミュルナがリュディア軍によって包囲された時、ミムネルモスはスミュルナの城壁の中にいたのかもしれません。彼は戦士として戦ったのでしょうか? 私はその時彼はすでに老年で、戦士としては戦えなかったと想像します。そしてスミュルナ陥落とともに命を落としたのでしょう。

スミュルナ(7):ミムネルモス(1)

スミュルナには、アレクサンドロス大王の指示によって建設された新スミュルナと、それまでの旧スミュルナの2つの町がありました。今回は旧スミュルナの盛期を生きたスミュルナ人であるミムネルモスをご紹介します。ミムネルモスは詩人で、後世の人名辞典スーダによれば、第37オリンピアード(BC 632〜29年)に盛りを迎えていたということですので、その時40歳だったとすればBC 670年頃の生まれということになります。ここでご紹介する情報は英語版Wikipediaの「ミムネルモス」の項およびタフツ大学の「ペルセウス・デジタル・ライブラリ」の「エレゲイア詩とイアムボス詩、巻1」の「ミムネルモス」の項に依拠しています。




(ヘルモス川)


英語版Wikipediaによれば、「ミムネルモス」という名前は、リュディア王ギュゲースがスミュルナを攻略しようとした時の、ヘルモス川のほとりでの戦いにおけるスミュルナの勝利を記念して、両親がつけた可能性がある、ということです。これは「ミムネルモス」という名前を「ミム」と「ネルモス」に分解して、後者を「ヘルモス川」と関連付けたものと思われます(しかし前者の「ミム」が何を意味するのか、私はギリシア語が分からないので分かりません)。そして、リュディア王アリュアッテスによるスミュルナ陥落の際に死んだのだろう、と推測しています。ミムネルモスの生涯については例によってほとんど分かりません。そこで生涯については脇に置いておき、彼の詩の断片を紹介します。これは英語版Wikipediaに出ていたものです。

What is life, what is sweet, if it is missing golden Aphrodite?
Death would be better by far than to live with no time for


Amorous assignations and the gift of tenderness and bedrooms,
All of those things that give youth all of its covetted bloom,


Both for men and for women. But when there arrives the vexatiousness
Of old age, even good looks alter to unsightliness


And the heart wears away under the endlessness of its anxieties:
There is no joy anymore then in the light of the sun;


In children there is found hate and in women there is found no respect.
So difficult has old age been made for us all by God!




黄金なすアプローディテが欠けているとしたら、何が人生であり、何が甘美なものであろう?
恋のかけひきと、やさしさと寝室の贈り物、そして男であれ女であれ


若さに、誰もが欲しがるその花盛りの全てを与えるそれら全てのもの、
それらのための、ひとときのないまま生きるよりか、


死ぬ方がずっとましだろう。だが、老年のわずらわしさが
やって来ると、美貌でさえ見苦しいものに変わり


心は、はてしない不安の下ですり減る。
そして日の光の中に、もはや喜びはなく、


子供たちの中に嫌悪が見出され、女たちの中に敬意のなさが見出される。
神は老年を私たち皆にとって、かくもつらいものに作られたのだ!

このような、ほろ苦い詩を作っていたのですね。この詩が書かれた2600年前から今に至るまで、多くの人々が同じような嘆きをしてきたことでしょう。いったいミムネルモスは何歳の時にこの詩を書いたのでしょうか?


この詩人の書いた恋愛を主題にしたいろいろな詩は、300年後の学者かつ詩人のカリマコスや、600年後のローマの詩人プロペルティウスに影響を与えたということです。


しかし、ミムナルモスの詩の主題は恋と人生のはかなさだけではなかったそうです。彼はコロポーン人によるスミュルナの占領についても歌っています。この詩の断片はタフツ大学の「ペルセウス・デジタル・ライブラリ」の「エレゲイア詩とイアムボス詩、巻1」の「ミムネルモス」の項に載っていました(ただし、詩行に分けての表示はされていなかったです)。

... When from the lofty city of Neleian Pylos we came on shipboard to the pleasant land of Asia, and in overwhelming might destroying grievous pride sat down at lovely Colophon, thence went we forth from beside the wooded river and by Heaven's counsel took Aeolian Smyrna.


ネーレイダイのピュロスの気高い町から我らが船に乗ってアジアの心地よい土地に来た時、我らは圧倒的な力で美しいコロポーンに居座る(レレゲス人の)痛ましい誇りを破壊し、そこから我らは木々に覆われた川のほとりから進み、天の助言によってアイオリスのスミュルナを獲得した。

この詩は私に文学的な興味ではなく、「神話と歴史の間」を探求する者としての興味を惹き起こします。「ネーレイダイのピュロス」というのはペロポネーソス半島の西側にあるピュロスという町のことで、ギリシア神話ではネーレウスとその子ネストールという王の故郷として登場します。特にネストールは、ホメーロスの「イーリアス」や「オデュッセイアー」では長老であり、過去のいさおしを半ば自慢しながら他のギリシア君侯に助言を与える人物として描かれています。


「ネーレイダイのピュロス」の「ネーレイダイ」というのはネーレウスの子孫という意味です。ギリシアの伝承によればネーレウスの子孫たちは、北方から攻めてきたヘーラクレースの子孫たちによって故国を追い出された、ということになっています。その一部はアテーナイに行き、テーセウスの子孫に代わってアテーナイの王になりました。メラントス、コドロスというのがそれらの者たちです。またアテーナイに亡命して、アテーナイの貴族の家柄になった者もおり、それはアルクマイオーン家と呼ばれました。上の詩が表明しているのは、コロポーンを建設したのはやはりネーレイダイの一部であるということでしょう。次にスミュルナをアイオリア人から奪い取ったことについては「天の助言によってアイオリスのスミュルナを獲得した」と歌うだけで、ヘーロドトスが伝えるような忘恩の行いについては書いていません。忘恩というのは、亡命者として受け入れてもらいながら、その町を計略を用いて奪い取ったからです。ミムネルモスがこういうことを書いていないという点も私には興味深いです。


「ペルセウス・デジタル・ライブラリ」には、この断片に関してアテナイオスの「食卓の賢人たち」からの引用も載っていました。そこには、「我々がミムネルモスのナンノ(=ミムネルモスの詩集の名前)から学んだように、コロポーンはピュロスのアンドライモンによって創建された」と書かれています。このアンドライモンについてもう少し情報が残っていたらよかったのに、と私は思います。

スミュルナ(6):荒廃と復興

スミュルナ占領に失敗したリュディア王ギュゲースは、その後、北からやってきた遊牧民キンメリア人と戦って死にました。キンメリア人はその後西へと進んでエーゲ海岸沿いを襲撃していくのですが、スミュルナがキンメリア人に襲われたのかどうか、英語版のWikipediaを調べても分かりませんでした。ヘーロドトスもそのことについては何も書いていません。キンメリア人が南のエペソスを襲撃したのは確かです。ひょっとすると、キンメリア人はスミュルナに来たことは来たが、堅固な城壁を攻めあぐねて退却したのかもしれません。このキンメリア人を最終的に小アジアから駆逐したのがリュディア王アリュアッテスでした。彼はギュゲースの3代後のリュディア王でした。キンメリア人が駆逐されたのはよかったのですが、その代わりリュディアがスミュルナを攻め、占領してしまいます。BC 600年前後のことでした。

このアリュアッテスは、(中略)キンメリア人をアジアから駆逐し、コロポンの植民都市であるスミュルナを占領し、クラゾメナイに侵攻した。ただしクラゾメナイでの作戦は思うにまかせず、散々な目に遭って撤退したのであった。


ヘロドトス著 歴史 巻1、16 から

歴史 上 (岩波文庫 青 405-1)

歴史 上 (岩波文庫 青 405-1)

この占領はスミュルナにとって壊滅的だったようで、その後、スミュルナは長い低迷の時代を経験します。ヘーロドトスの「歴史」には、上に引用した記事より後の時代のスミュルナに関する記事は登場しません。スミュルナはイオーニアの反乱にも参加しなかった(出来なかった)ようですし、ペロポネーソス戦争にも名前は出てこないようです。


このスミュルナの占領の原因について英語版のWikipedia

テオグニス(BC 500年頃)によれば、スミュルナを破壊したのはうぬぼれであった。


英語版Wikipediaの「スミュルナ」の項目より

と書いています。どういうことなのかネットを調べたところ、次のようなテオグニスの詩句に出会いました。(ただし英語で書かれていました。)

Pride and oppressive rule destroy'd the state
Of the Magnesians--Such was Smyrna's fate;
Smyrna the rich, and Colophon the great!
And ours, my friend, will follow, soon or late.


うぬぼれと圧政がマグネシアの町を
破壊した。同じことがスミュルナの運命だった。
豊かなスミュルナよ!、そして大いなるコロポーンよ!
そして我々の町も、友よ、遅かれ早かれそれに続くだろうよ。

これを読んでも、私はまだよく分かりませんが、当時スミュルナは油断していたということなのでしょうか? 上の詩句からはそのように感じられます。



スミュルナが復活するのはBC 4世紀まで下って、アレクサンドロス大王小アジアに攻め込んで、ペルシアの支配から小アジアギリシア諸都市を解放した時です。アレクサンドロスはスミュルナの再建を考え、その後継者であるアンティゴノスやリュシマコスがスミュルナを再建しました。厳密にいうと元々のスミュルナの町より少し離れたところに新しい、より大きな市街を建設したのでした。



アレクサンドロス大王


この町はその後、小アジア内陸とエーゲ海を結ぶ交通の要衝として、エペソスやミーレートスと競い合う関係になります。そしてローマがギリシアを支配する頃になると、スミュルナはそれらの町を抜き、小アジアで1、2を争う大都市になりました。現在残っている遺跡の大部分はAD 2世紀のものだそうです。